森﨑和幸インタビュー@後編 2度のJ2降格に、度重なる体調不良――。サンフレッチェ広島ひと筋でプレーしたMF森﨑和幸のキャリアを振り返れば、苦しいことのほうが多かった。それでも彼は、何度も何度もピッチに戻ってきた。 そんな森﨑のキャリア…
森﨑和幸インタビュー@後編
2度のJ2降格に、度重なる体調不良――。サンフレッチェ広島ひと筋でプレーしたMF森﨑和幸のキャリアを振り返れば、苦しいことのほうが多かった。それでも彼は、何度も何度もピッチに戻ってきた。
そんな森﨑のキャリアは、森保一監督という指導者との出会いによって栄光が待っていた。2012年、2013年とJ1連覇を達成。さらには2015年にもJ1優勝を成し遂げ、3度の日本一に輝いた。
現役を引退した今だから、度々オーバートレーニング症候群や慢性疲労症候群を発症して戦線を離脱しなければならなかった症状について、そしてサンフレッチェというクラブへの想いを語ってくれた。
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引退セレモニーで肩を抱き合う森﨑和幸と森﨑浩司
―― 2012年から、今や日本代表監督になった森保監督が指揮を執るようになり、サンフレッチェは3度のJ1優勝を達成しました。森保監督から期待されていたことは何でしたか?
森﨑和幸(以下:森﨑) 森保さんが僕自身に期待していたのは、「自分らしくいてくれ」ということだったように思います。心の余裕があれば、チームのために働きかけてほしいという想いはあったと思いますけど、それ以前に、自然体でいてくれることを望まれていたように感じています。
生まれ育った広島でプロになったことで、どこかしら、サンフレッチェというクラブであり、広島という町を背負ってしまっていたところがあった。森保さんは、そうした僕の想いを取りのぞいてくれていたのかなと……。
―― 覚えているエピソードは?
森﨑 森保さんがサンフレッチェの監督に就任することが決まった時、すぐに電話をもらったんですね。そのとき、きっと、何人かだけに電話しているんだろうなと思ったんですけど、あとあと聞いたら、当時所属していた選手全員に連絡していたんです。
そういう監督は初めてだったので驚きましたけど、今思えば、森保さんらしいですよね(笑)。その時、「一緒にいいチームを作っていこう」と言われたことを覚えています。「自分がいいチームを作っていく」ではなく、「一緒に作っていこう」と言っていたのが印象的でした。
―― そんな指揮官と3度のJ1優勝を達成できたことは幸せでしたね。
森﨑 自分のキャリアにおいても、最高の思い出です。本当に森保さんが、何度も優勝に導いてくれました。持っているとか、持っていないというだけでは、3回もJ1で優勝することはできないと思うんですよね。きっと、森保さんのことだから「そんなことはないよ」って言うでしょうけど、あの3度の優勝は、森保さんの力が一番大きかったと思います。
―― 練習場に取材に行けば、いつも森保監督と話している姿を見受けました。
森﨑 そうですね。いつから話をするようになったのかは覚えていないのですが、おそらく僕の知るかぎりでは、選手のなかで一番、森保さんと話していたんじゃないかと思います。今思えばですけど、チームのことを探られていたんだろうなって思います(笑)。
その時は深く考えてはいなかったんですけど、ピッチのなかにいる選手たちがどのように感じているのか、チームメイトたちが何を思っているのかを、僕を通じて知ろうとしていたのではないかなって思います(笑)。
―― その森保監督から一番学んだことは?
森﨑 人間ってすぐに結果を求めがちじゃないですか。練習でもすぐに効果を求めがちですよね。たとえば、体幹トレーニングでもそう。早く結果を実感したいと思ってしまうところがある。でも、僕が森保さんから教わったのは、結果も大事だけど、もっと大事なのはプロセスだということ。
まず、その過程でどれだけやったかがあって、なおかつ、その過程でしっかりと取り組めば、自ずと結果がついてくるということを教わった。勝つ確率を少しでも上げるために、準備であり、積み重ねを大事にしていくということを。
―― なるほど。ただ、2017年途中に森保監督が退任し、ヤン・ヨンソン監督が引き継ぐことになりました。
森﨑 今思えば、ヨンソンは、その時のチームがやらなければならないことに取り組んでくれていたんだなって思います。それは、サッカーの基本のところです。正直、その当時のチームは、そうした基本のところが薄れてきてしまっていた。それは「止めて蹴る」の部分もそうですし、球際の強さもそう。
そうした当たり前のことができていないと、プラスアルファは出せないですよね。ヨンソンのトレーニングはシンプルなものも多く、プロにしたら当たり前だと思うようなところもあったかもしれませんが、その基本ができていないからこそ、取り組んでいたんだろうなと思います。きっとそれが、今になって活きている選手もたくさんいると思うんですよね。
―― そして、自身にとってキャリア最後の指揮官となったのが、今シーズンから指揮を執った城福浩監督でした。
森﨑 僕は城福さんが最後の監督でよかったなって思っているんです。今シーズン開幕前に体調不良になり、キャンプに同行しないと決めたときも、城福さんは連絡をくれたんです。
他にも実は、試合のたびに、勝っても負けてもメールを送ってきてくれたんです。復帰した後、「勝手にメールを送りつけてしまって申し訳なかった」と謝られたのですが、うれしかった。僕は孤独を感じてもいたし、忘れられていないというか、自分もチームの一員なんだと思うことができた。
それこそ、メールは試合が終わって1時間で届くときもありました。その時々で、チームとして積み上げていること、課題になっている部分を書いてきてくれていた。体調が悪くて試合を見られない時もありましたけど、そのメールのおかげで、チームがどういう過程を踏んでいるのかをイメージすることができたんです。
―― だからこそ、キャリア最後の監督でよかったと思えたんですね。そして、先に現役を引退して、今はアンバサダーとして活躍している双子の弟・森﨑浩司の存在はどんなものだったのでしょうか?
森﨑 もちろん、兄弟ではあるのですが、親友でもありました。でも一番は、お互いにそう感じているでしょうけど、ずっとライバル関係だったと思います。そこが一番ですかね。
僕の調子がいいと、あいつは絶対に面白くなかったと思うんです。逆に僕もそうで、あいつの活躍を心の底から喜んでいたかというと、そうじゃないところもあった。
でも、正直、それは僕らではなく、周りが作り出した環境でもあったんです。僕が活躍すれば、「浩司はどうしてるの?」と聞かれる。逆に浩司が活躍すれば、「カズは何してるの?」となる。そうやって、僕らはお互いを意識させられてきた。その結果、お互いに成長できたところもあるんですけどね。
でも、親友と言ったのは、ただ単に仲がいいというだけじゃない。ぶつかれるから、なんです。加えて、僕らは本心をしゃべらなくても分かり合える関係にあった。それはサッカーのことも、病気のこともそう。だから、双子でよかったなって思っています。
―― ペトロヴィッチ監督からは「ドクトル」という愛称をもらいましたが、最後に、森﨑和幸という選手はどんなプレーヤーだったのでしょうか?
森﨑 これは最後に書いておいてもらえればと思うんですけど、僕はそこまで理論派ではなかったと思っています(笑)。試合の流れを読むことも、ゲームをコントロールすることも、キャリアを重ねて、経験を積んでいけば、自然とそうなっていくと思いますよ。
―― 必然的にそうなっていったと?
森﨑 めちゃめちゃ語らせますね(笑)。最後に、僕がなぜ、そういう選手になっていったのか――。自分の思いを伝えると、ひとつはサンフレッチェというクラブの伝統もあると思います。それ以上に、自分にとって大きかったのは、現役中に2度、J2に降格した経験でした。
自分はその2度とも主力として試合に出ていて、その責任を強く感じていた。とくに2回目のJ2降格の時には、選手とサポーターの距離がものすごく離れてしまったように感じたんです。その失われてしまった信頼を何とか取り戻したい、という一心だったんですよね。ずっと……その信頼を取り戻したい……その想いがずっと続いていたんです。
―― 最後に、これまで何度も体調不良に陥り、戦線を離脱しました。その5回ともピッチに戻ってくることができた原動力とは?
森﨑 体調不良で長期離脱したのは、大きく分けて5回。でも僕は、毎年、毎年、つらかったんです。それはサッカーだけでなく、プライベートも。知り合いに食事に誘われても、体調的にきつくて、忙しいという理由で断らなければならないこともありました。子どもがどこかに連れて行ってほしいと言っても、体調が悪いからと我慢させたこともありました。クラブにも、チームにも、チームメイトにも、そして家族にも、本当に迷惑をかけたなって思います。
でも、そのたびに思ったんです。僕には助けてくれる人が多かったなって……。だから、その時々で復帰できた理由は違います。でも、自分なりに分析すれば、結局のところ、「本能」だったように思います。
今シーズンに限って言えば、僕は生活するためではなく、「生きるため」に戻ってきた。子どもにはよく言っているんです。「あきらめたら、そこで終わり」って。自分が子どもにそう言っているのに、自分があきらめてしまったら、示しがつかない。自分の言葉には責任を持ちたかった。その想いが強かったんだと思います。
【profile】
森﨑和幸(もりさき・かずゆき)
1981年5月9日生まれ、広島県出身。177cm・75kg。MF。サンフレッチェ広島ユース時代にチーム初の「高校生Jリーガー」としてデビューを果たす。2000年、Jリーグ新人王を受賞。2016年には史上14人目のJ1通算400試合出場を達成する。双子の弟・浩司とともにサンフレッチェの顔として活躍。