森﨑和幸インタビュー@中編 かつてミハイロ・ペトロヴィッチ監督(現・北海道コンサドーレ札幌監督)は、森﨑和幸のことを「ドクトル(ドイツ語で博士の意)」と言い表した。それは、正確なパスで攻撃のリズムを作り出し、チームの方向性をも修正してし…
森﨑和幸インタビュー@中編
かつてミハイロ・ペトロヴィッチ監督(現・北海道コンサドーレ札幌監督)は、森﨑和幸のことを「ドクトル(ドイツ語で博士の意)」と言い表した。それは、正確なパスで攻撃のリズムを作り出し、チームの方向性をも修正してしまう戦術眼にあった。森﨑のパスにより、チームは攻めるべきタイミングを理解し、攻めるべき形をも見極めていった。
のちに森保一監督(現・日本代表監督)のもと、サンフレッチェ広島が3度のJ1優勝を成し遂げられたのも、けっして目立たないが、ピッチの指揮官と呼ばれる森﨑の功績が大きかった。
「ドクトル・カズ」はいかにして戦術眼やゲームコントロールを身につけていったのか――。そこには、ともにプレーした選手の影響があった。
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森﨑和幸はサンフレッチェというクラブの歴史そのものだ
―― 2002年からサンフレッチェを指揮した小野剛監督(現・FC今治監督)からの期待もあって、代名詞でもあるゲームコントロールであり、試合のリズムを作るプレーを心掛けるようになっていったのでしょうか?
森﨑和幸(以下:森﨑) 自分のなかでは、試合をコントロールしようとか、そういうプレーがやりたいと思ってきたわけではなかったんですよね。でも、一番刺激を受けたのは、(セザール・)サンパイオ(※)だったんです。彼のそばでプレーしたことで、試合の流れを読むとはこういうことか、というのを学びました。
※セザール・サンパイオ=1995年に現役ブラジル代表MFとして横浜フリューゲルスに入団。その後、2002年に柏レイソル、2003年〜2004年に広島でプレー。
サンパイオは、試合の時間帯であったり、流れ、チームの状況に応じて、その時々で何をしなければいけないのかをわかっていた。加えて、ボランチというポジションながら、試合の結果を自分で左右することができたんです。
―― というと?
森﨑 要するにサンパイオは、自分で試合を決めることができたんです。残り10分で試合に負けていれば、彼は自ら前線に上がっていった。それでチャンスと見るや、ゴール前まで駆け上がり、ヘディングや足で得点を決めてしまいましたから。彼からは本当に多くのことを吸収しましたけど、残念ながらその領域までは到達できなかったですね。
―― でも、サンパイオの「試合を決め切るプレー」というものは意識していた?
森﨑 サンパイオほどではなかったですけど、多少はありましたね。だから、数は少ないですけど、J1で初優勝した2012年のガンバ大阪戦(J1第30節)の同点ゴールや、2015年のアルビレックス新潟戦(J1第8節)のゴールは、そうした意識から生まれたものでした。
どちらも試合終盤に、するするっとゴール前に入っていって決めたもの。頭のどこかでサンパイオのプレーを覚えていたからこそだったと思っています。
―― 小野さんの次が、2006年途中より指揮を執ったペトロヴィッチ監督でした。
森﨑 ミシャ(ペトロヴィッチ監督)は監督である以上に、父親みたいな存在でした。選手としてはもちろん、本当に人としてもいろいろなことを学びました。何より、一番大切な「サッカーを楽しむ」ということを、もう一度、思い出させてもらったんです。
―― そのペトロヴィッチ監督との思い出を挙げれば、キリがないと思いますが、一番覚えているエピソードは何ですか?
森﨑 やっぱり、最初に会った時のことですかね。ミシャ(ペトロヴィッチ監督)は2006年シーズン途中に監督に就任したのですが、僕はそのころ、体調不良(※)で練習を休んでいたんです。でも、当時・強化部長だった織田(秀和)さんから、「新しい監督が練習場に来るから、もし来られそうだったら練習場に来てほしい」と連絡をもらったんです。自分自身も、ここで行かなければ、このままズルズルと練習を休んでしまうことになるという思いもあった。だから、妻にも背中を押してもらって、何とか練習場に行ったんです。
※これまで度々オーバートレーニング症候群や慢性疲労症候群を発症。今シーズン開幕前に5度目となる同症状で長期離脱していた。
忘れもしないですよ。クラブハウスの2階にあるテラスでミシャと会ったんですけど、初対面なのにいきなり、「カズの好きなようにしていいから」って言われたんです。ビックリしましたよね。初対面だし、実際に僕のプレーを見たこともないのに、ですよ。
しかも、チームは成績不振だったから監督交代に踏み切ったわけで、ミシャ自身もその状況で監督を引き受けたわけだから、ひとりの選手のことを気にしている余裕なんてないはず。それなのに、どこか余裕があったというか、どっしりと構えているように見えたんです。
その時、その言葉とともに言われたのが、「絶対に成長させてやる」ということと、「日本代表に選ばれるような選手へと成長できる」ということでした。実際、僕は代表に選ばれなかったですけど、当時チームにいた(柏木)陽介や槙野(智章)、(髙萩)洋次郎、それとアオ(青山敏弘)はそこまでの選手になりましたからね。
―― ただ、結果的に2度目のJ2降格となったその2007年、ボランチではなくDFとして起用されていましたよね。
森﨑 そうですね。ずっとストッパーで起用されていました。これも忘れもしない、京都サンガとの入れ替え戦です。アウェーでの第1戦に1-2で負け、ホームの第2戦を前に、「チームに迷惑をかけるくらいなら、自分を使わないでくれ」と、ミシャに言ったんです。それくらい、ストッパーでプレーしている自分は、チームに迷惑をかけてしまっていると感じていたんです。
そうしたら、ミシャは第2戦の前日に、初めて非公開練習をして、僕をボランチで起用したんです。結果的にチームはJ2に降格してしまいましたけど、それ以降、なぜかずっとボランチを任せてくれるようになりました。
―― 思い返すと、自身の特徴でもあるボール奪取能力は、そのストッパー時代に身についたものではないですか?
森﨑 そうなんですよね。最終ラインでプレーしていると、どうしてもマッチアップするのは相手の攻撃的な選手になる。しかもどのチームも、前線には強烈な個性を持っている選手が揃っている。ストッパーとして、そうした選手と対戦する機会が多く、ボランチに戻ったときに、中盤には相手FWよりも怖い選手はいないなって思えたんですよね。中盤の選手って、うまい選手は多いですけど、怖いというのとは違うじゃないですか。だから、怖くないぶん、躊躇なくディフェンスにいけるようになったんです。
加えて、ボランチの位置ならば、たとえかわされたとしても、後ろにはDFがいてくれる。それもあって、思いっ切りチャレンジできるようになったんです。あと……ストッパーでプレーした2006年は、自分自身もたくさん批判を受けました。その屈辱があったからこそ、ボランチに戻った2007年からは、絶対にボランチで見返してやるという反骨心が芽生えたんです。このポジションで、自分の存在価値を示してやると、ずっと思ってきましたから。
―― ペトロヴィッチ監督時代に確立し、その後、森保一監督(現・日本代表監督)も踏襲した3-4-2-1システムは、ボランチの底に森﨑和幸がいるからこそできるサッカーだと言われるようになりました。
森﨑 僕はそんなふうに思ったことは一度もないですけどね。あれはミシャが築いたサッカー。ボランチでありながら、最終ラインまで下がって、ビルドアップに加わるようになったのも、ミシャがすべての局面において、いかにして数的優位を作るかにこだわっていたからなんです。
そうした思考を擦り込まれていたから、試合中に自然とそういうポジショニングを取ったんです。どうやったらチームがうまくいくか、どうやってゴール前までボールを運んでいくかを考えた末の判断。ミシャのサッカーは、もちろんベースはありますけど、究極のところでは、選手それぞれの状況判断に託されているところがあるんです。
―― そのペトロヴィッチ監督から教わったこととは?
森﨑 サッカーに対する思考が変わりましたよね。とくに日本人選手はポジションにとらわれすぎるところがあるじゃないですか。自分もそうでしたけど、たとえば中盤の選手がDFで起用されれば、まず「えっ?」という反応をしますよね。でも、ミシャにはそうした概念がなかった。前提として、いい選手であれば、どのポジションでもできるという考えがある。
僕自身も「中盤でしかプレーできない」という先入観がありましたけど、できたかどうかは別として、結果的にストッパーやリベロでプレーさせてもらった。僕だけではなく、他にも中盤の選手がウイングバックでプレーしたり、ときにはシャドーでもプレーした。それこそ、洋次郎が1トップで起用されたこともありましたからね。そうした既存のポジションにとらわれないことで、選手としての幅を広げてもらった。そこは、自分自身も勉強させてもらいましたよね。
―― ペトロヴィッチ監督の代名詞でもある3-4-2-1システムにおいて、ボランチの森﨑選手が最終ラインに加わってビルドアップするようになったのも、そうした考えから成り立ったプレーだったのかもしれないですね。
森﨑 ミシャによく言われていたのは、「すべての局面で、いかにして数的優位を作るか」ということでした。だから、僕が中盤から最終ラインに降りてプレーすることも、数的優位を作るということだったんです。
僕が下がることで、後ろで数的優位を作ることができますよね。ミシャのそうした考えが擦り込まれていたから、試合の中で自然と、そうした判断であり、思考が生まれたんだと思います。結局のところ、どうやったらチームがうまく回るか。どうやって相手のゴール前までボールを運んでいけばいいかを考えた末の判断であり、ポジショニングだったんですよね。
(つづく)
【profile】
森﨑和幸(もりさき・かずゆき)
1981年5月9日生まれ、広島県出身。177cm・75kg。MF。サンフレッチェ広島ユース時代にチーム初の「高校生Jリーガー」としてデビューを果たす。2000年、Jリーグ新人王を受賞。2016年には史上14人目のJ1通算400試合出場を達成する。双子の弟・浩司とともにサンフレッチェの顔として活躍。