森﨑和幸インタビュー@前編 サンフレッチェ広島ひと筋でプレーしたMF森﨑和幸がユニフォームを脱いだ。プロになってから19年、ユースから数えれば22年をサンフレッチェとともに歩んできた。 現・日本代表監督である森保一のもと、クラブ史上初と…

森﨑和幸インタビュー@前編

 サンフレッチェ広島ひと筋でプレーしたMF森﨑和幸がユニフォームを脱いだ。プロになってから19年、ユースから数えれば22年をサンフレッチェとともに歩んできた。

 現・日本代表監督である森保一のもと、クラブ史上初となる2012年のJ1初優勝を皮切りに、3度のリーグ優勝を達成したチームの中盤には、いつも森﨑がいた。そのバンディエラは、いかにして稀代のボランチへと成長していったのか。それはすなわち、サンフレッチェというクラブの歴史でもある――。



引退した森﨑和幸に現役時代の思い出の数々を振り返ってもらった

―― 19年間に及ぶプロサッカー選手としてのキャリアを終えた今の心境はどうですか?

森﨑和幸(以下:森﨑) 実はまだ、現役を引退した実感がないんですよね(苦笑)。それは他のチームメイトと一緒に、オフに入ったこともあると思います。おそらく、そうした感情が沸いてくるのは、来年になってチームが始動したときや、キャンプインしたときに感じるのかなと思います。

―― 11月24日のホーム最終戦(J1第33節/名古屋グランパス戦)では引退セレモニーがありました。あらためて、そのときの思いを聞かせてください。

森﨑 僕が見えていたところだけでなく、知らないところでも、僕のためにいろいろな人たちが動いてくれていたことを知り、本当にありがたかったです。引退会見を開いてもらったこともそうですけど、体調不良(※)で休んでいたときには、自分の言葉で挨拶することはできないと思っていました。だから、ホーム最終戦で、サポーターの前でスピーチさせてもらえたことは本当に幸せでした。

※これまでたびたびオーバートレーニング症候群や慢性疲労症候群を発症。今シーズン開幕前に5度目となる同症状で長期離脱していた。

―― それで終わりではありませんでしたね。シーズン最終戦となったJ1第34節では今季初先発を飾りました。しかも対戦相手は、恩師でもあるミハイロ・ペトロヴィッチ監督が率いる北海道コンサドーレ札幌でした。

森﨑 考えれば考えるほど、作ろうと思っても作れない話ですよね。さすがにそこには運命を感じました。

―― その札幌戦はどのような思いでピッチに立ちましたか?

森﨑 とにかく勝ちたいという思いだけでした。それしか考えていなかったです。たしかに、時間が過ぎれば過ぎるほど、自分のキャリアが終わっていくというか、キックオフしたときからカウントダウンが始まっていることはわかっていました。だから、ハーフタイムを迎えたときには「泣いても笑ってもあと45分」だなと思いましたよね。

 そのうえで、自分が90分間出場できるとは思っていなかったので、とにかくやれるところまでやり切ろう、すべてを出し切ろうと思っていました。その次には、前半を終えて1-2だったので、まずは同点に追いつくことを考えました。

―― 結果的に2-2の同点に追いつき、自身は82分までプレーしました。

森﨑 そこまでプレーできるとは正直、想像していなかったですね。実は試合中、何度も、監督やベンチから「大丈夫か?」と聞かれていたんです(笑)。自分としても、前半で力を出し切ったところもあって、体力的には厳しいところもありました。

 ただ、後半に入り、ずっとうちがボールを支配していましたし、攻めていたので、この展開ならば『まだ何とかなるな』と思ったんです。もし、自分がピッチにいることで、失点する可能性だったり、劣勢になる可能性があったとしたら、迷いなく交代を選択していたと思います。

―― 最後、ピッチを出るときはどのような心境でしたか?

森﨑 交代するとき、GKのタクト(林卓人)も含めて、みんなが駆け寄ってきてハイタッチしてくれたのはうれしかったですね。札幌のサポーターにはちょっと申し訳なかったですけど、最後くらいは自分の気持ちを優先してもいいかなと思い、時間をもらってしまいました(笑)。

―― 2-2で試合を終えて、チームは2位を確保。来季のAFCチャンピオンズリーグ出場権を獲得しました。

森﨑 最低限の仕事はできたかなと思っています。ただ、2位になれたのは、1年間がんばってきた選手がいたからこそ。僕と交代してピッチに入ったゴロー(稲垣祥)はその中心としてプレーしてきたように、彼らが積み重ねてきたから、勝ち獲れた2位だったと思います。そこに最後の最後で、少しだけ自分も加わることができたのかなと。

―― 現役引退にあたって多くの取材を受けたと思うので、ここでは指導を受けてきた歴代の監督たちについて話を聞かせてもらえればと思います。高校3年生でJリーグデビューした1999年に、サンフレッチェ広島の指揮を執っていたのがエディ・トムソン監督でした。

森﨑 僕がプロになったのは2000年なので、実質、1年間しか指導は受けていないのですが、エディはとにかく基本技術を大切にする監督でした。それこそ、アウトサイドキックでパスを出して成功すれば何も言われませんでしたが、少しでもミスをすれば、「何でインサイドキックを使わないんだ」と言うような監督でしたからね。彼からは本当に、基本技術の大切さを学びました。

―― プロ1年目の時期に、あらためてサッカーの基本を学んだことが大きかったと?

森﨑 いや、自分に合っているなって思ったんです。自分はそれまでも基本技術を大切にしてきたので。もともとアウトサイドで蹴るようなタイプの選手ではなかったですし、その思考が合っていたからこそ、ルーキーである1年目から試合に起用してもらえたのかなと。

 当時はダブルボランチでしたけど、どちらかと言えば自分は攻撃的。コンビを組んでいた森保(一)さんやクワさん(桑原裕義)が、守備ではいつもバランスを取ってくれていました。だから当時は、攻撃のことを考えるほうが多かった。

 ただ、チームはけっして強くはなかったので、どうしても戦い方が守備的にならざるを得ない。前線にはタツさん(久保竜彦)がいたので、みんなでがんばって守備をして、タツさんを活かすサッカーでした。細かい戦術は違えども、パトリックを活かそうとした今シーズンのサンフレッチェのサッカーに近かったかもしれません。

―― プロ2年目になった2001年に指導を受けたのが、ロシア人のヴァレリー・ニポムニシ監督でした。

森﨑 これが面白いことに、ヴァレリーはエディとは真逆だったんです。エディが守備的だったのに対して、ヴァレリーは攻撃志向。実際に、僕のポジションもトップ下になりました。それこそ、なぜか(双子の弟である)浩司がボランチで、僕がトップ下で起用されましたから。ユースのころからずっと僕がボランチで、浩司がトップ下でプレーしてきていただけに、そこはちょっと悩みました。

 その2001年は2ndステージになってチームの調子も上がり、3位に滑り込んだんですけど、ヴァレリーのサッカーは純粋に練習から楽しかった。攻撃志向なので、シュート練習も多く、常に攻撃にフォーカスした練習ばかりだったんです。

 個人としてはトップ下で起用されるようになり、より得点に絡まなければならなくなった。実際、ヴァレリーからも『もっと決定的なパスを出せ』と、よく言われていました。自分自身もそこにトライしようとしましたが、なかなかうまくいかなかったところはありましたね。

―― 次もロシア人のガジ・ガジエフ監督。こうして振り返って見ると、若手のころは外国人監督の指導ばかりを受けてきたんですね。

森﨑 新鮮ではありましたよね。監督が話したあとに、通訳がそれを説明してくれる感覚は。でも、エディで慣れたところもあって、違和感はありませんでした。

 ただ、ガジエフ時代は難しかったですね。僕個人としても、当時はまだ、戦術理解度もそれほど高くはなかったですし、ガジエフが本当にどういうサッカーをしたかったのか、理解することができませんでした。チームも勝てず、ガジエフはシーズン途中で退任。結果、J2降格となり、本当に難しい時期でした。

―― J2で迎えた2003年から小野剛監督のもと、チームは再出発。このころからですか、選手としての意識が変わってきたのは?

森﨑 そうですね。1度目のJ2降格となった2002年は、まだ自分のことで精一杯でしたけど、チームを降格させてしまったという責任を強く感じたんです。その経験から、何となくですけど、チームのことを考えるようになりました。

 それでJ2で再出発するときに、小野さんが監督になりました。小野さんとは年代別の日本代表のときから、ずっと一緒にやらせてもらっていたこともあって、僕に対する要求は高かったですし、同時に期待も感じていました。事あるごとに、「中心になれ、中心になれ」という言葉がけもしてもらいましたし、そうした言葉や態度から、自分の意識も変わっていきました。小野さんの言葉が、選手としてもうひとつ殻を破るキッカケになったのかなと、今では思っています。

(つづく)

【profile】
森﨑和幸(もりさき・かずゆき)
1981年5月9日生まれ、広島県出身。177cm・75kg。MF。サンフレッチェ広島ユース時代にチーム初の「高校生Jリーガー」としてデビューを果たす。2000年、Jリーグ新人王を受賞。2016年には史上14人目のJ1通算400試合出場を達成する。双子の弟・浩司とともにサンフレッチェの顔として活躍。