私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第8回マイアミの奇跡に隠されたエースの苦悩~前園真聖(3)(1)から読む> (2)から読む>ナイジェリア戦でも「攻撃的に戦いたい」と訴えた前園だったが...。photo by Getty Ima…
私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第8回
マイアミの奇跡に隠されたエースの苦悩~前園真聖(3)
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ナイジェリア戦でも
「攻撃的に戦いたい」と訴えた前園だったが...。photo by Getty Images
アトランタ五輪の初戦でブラジルを破る「マイアミの奇跡」を演じた日本。2戦目も強豪ナイジェリアを敵に回しながら、前半は0-0で終えた。
キャプテンの前園真聖は、前半の試合展開からして、後方からも押し上げて攻撃の枚数を増やせば、点が取れる可能性が高いという手応えを得ていた。
点を取って勝てば、次のステージに進める――そう思って、ハーフタイムを迎えると「もっと攻撃に人数を割いてほしい」と、西野朗監督に訴えた。
しかし、西野監督が首を縦に振ることはなかった。
「おまえの気持ちはよくわかる。でも、チーム全体のことを考えると、(ナイジェリアには)スピードを生かして素早く裏を取れる選手がたくさんいるから、そう簡単には後ろから押し上げることはできない」
西野監督はリスクを回避して、プランどおりに戦うことを前園に伝えた。だが、前園はハーフタイムが終わるまで、西野監督に食い下がった。
「点を取りたいし、勝ちたいから、そりゃ(自分の意見を)言うよ。ただそれは、監督に反旗を翻したわけじゃない。アトランタ五輪の前から、監督には言いたいことを言っていたし、言いたいことを言えるチームだったからこそ、あのチームは成り立っていた。
西野さんも、俺の性格をわかっているし、モノを言える環境を作ってくれた。それは、先のロシアW杯でもそうだったと思う。とにかくあの時は、点が取れれば勝てると思っていたんで、かなりしつこく言いました」
前園の提言にも守備的な戦術を変えなかった西野監督に、とりわけ憤慨していたのは中田英寿だった。激しい怒りを西野監督にぶつけ、試合中も「前に来いよ!」と後方の選手たちを怒鳴り続けていた。
「ヒデの気持ちはよくわかる。後半もチャンスを作れていたし、誰かひとりでも積極的に攻撃に絡んできてくれたら、点は取れたと思う。
でも結局、最終的にはDF陣のミスと、ヒデが相手を抑えたプレーがPKを取られて、2失点して負けた。相手に崩されたわけじゃないし、もう少しみんなが攻撃的にいっていれば勝てた試合だったので、ほんと悔しかった」
グループリーグ最後のハンガリー戦は、決勝トーナメント進出のためには、勝利が必須の試合となった。ナイジェリアが2勝でトップに立ち、日本とブラジルが1勝1敗で並んでいたからだ。
一方の試合、ブラジルvsナイジェリアは、ブラジルが勝つ可能性が高かった。日本がハンガリーに勝った場合、勝ち点6で3チームが並んで、得失点差の勝負になる。試合前の得失点差は、日本がマイナス1、ブラジルがプラス1。日本がブラジルの上に行くには、できるだけ多くの得点を奪って勝たなければいけない。西野監督は「攻めて勝つぞ!」と、攻撃的なサッカーでいくことを選手たちに命じた。
「あの大会で初めて、みんなで点を取りにいこうと意思統一された」
この時を待っていたとばかりに、前園のテンションは上がっていた。だが、なぜかスタメンには中田の名前がなかった。
「(先発メンバーに)ヒデがいないのはびっくりした。『(前線には)俺と城(彰二)しかいないじゃん。どうやって点を取るんだよ』って思ったけど、ヒデを(メンバーに)戻してくださいとは言えなかった。選手起用については、選手があれこれ言ってはいけないので、そう思っていても言わなかった。これはもう、俺が点を取らないといけない。『やるしかねぇ』と思いました」
ハンガリー戦は、常に相手に先行される苦しい展開だった。
90分間が経過して、日本は1-2とリードされていた。残りはアディショナルタイムを残すのみだったが、そこから日本は怒涛の反撃を見せた。
CKから途中出場の上村健一がヘディングでゴールを決めて同点。さらにその直後、伊東輝悦の右からのクロスに反応し、ゴール前に走り込んでいた前園が左足で決めて3-2と逆転勝ちした。
結果、日本は2勝1敗、勝ち点6。普通なら、グループリーグを十分に突破できる成績である。
だが、日本はナイジェリア戦での0-2という結果が大きく響いて、ブラジル、ナイジェリアと勝ち点で並びながら、得失点差でグループ3位に終わり、決勝トーナメントには進めなかった。
「2勝1敗で、上に行けない……。(ハンガリー戦が終わった瞬間は)もっとやれたんじゃないかって、その悔しさが大きかったし、このメンバーでもうサッカーができないんだ、という寂しさがあった。このチームは、海外遠征にもよく行って、活動期間も長かったから、特別な思い入れがあった。だから、あの日の夜は、みんなで飲みながら、いろんな話をした。
ある合宿中、選手みんなで飲みに行ったことがあった。翌朝、練習前にみんなが集合すると、西野さんはそれに気づいているにもかかわらず、何も言わなかった。もちろん、ちゃんと練習はこなしていたからだろうけど、今だったら、即アウトでしょ。
昔はおおらかな時代だったっていうのもあるけど、西野さんは大きな心で俺らを受け止めてくれていた。俺らはやんちゃだったけど、誰もが『世界に行く!』と強気だったし、肝が据わっていたしね。だからこそ、(1968年のメキシコ五輪から)28年も閉ざされていた扉を押し開けて、本大会でも2勝できたんだと思う」
決勝トーナメントに進出し、メダル獲得という目標は達成できなかった。しかし、アトランタ五輪3試合は、前園のサッカー選手としての向上心を大きく刺激した。
「実際にマッチアップしてみて、初めて”世界”のすごさがわかったし、うまくなるためには彼らが日常的にいるなかで練習して、試合をしないといけないと思った。世界の強豪と戦うことで、プレーだけじゃなく、メンタルも磨かれたからね。
世界に出ることが日本人には必要だ、ということ。それを、教えてくれた大会だった。だから、帰国してすぐ『海外に行きたい』って思った」
ところが、ここから前園の”輝き”に陰りが見え始める。
フランスW杯のアジア1次予選前に日本代表に招集され、アジア杯やタイのキングス杯に臨んだが、他の選手と今ひとつかみ合わなかった。加茂周監督は、それでも前園をメンバーから外すことなく、オマーンで行なわれた1次予選にはチームに帯同させた。ただ、前園に出場のチャンスはなく、これ以降、日本代表に招集されることはなかった。
輝きを放っていたアトランタ五輪のあとも、前園にはサッカー選手としての”ピーク”を迎えられるチャンスはあった。しかしなぜ、その”ピーク”を築けなかったのだろうか。
「それは、自分の精神的な弱さ。自分への批判とか、プレッシャーとか、それらをはねのけるだけの強いメンタルを持てなかった。考え方もネガティブになることが結構あったし、いいプレーをしても続かないとか、精神的に自分をコントロールできなかった。
あと、(チームの)監督や環境によっても、プレーが変わってしまう。それも、結局メンタルでしょ。(五輪後に飛躍した)ヒデは、調子の波がないし、そういうのに左右されないけど、俺は(メンタルが)強そうに見て、意外と繊細で(周囲の声などいろいろと)気にするタイプだったんです」
アトランタ五輪の最終予選以降、尖って口を閉ざすようになったのは、前園のメンタルの弱さも影響していた。城や中田のように「人の言うことをまったく気にしない」タイプであれば、受け流すことができていたであろういろいろなことを、前園は受け止めてしまった。
人気が出れば、アンチも増える。中傷や謂われない噂話が流れたり、自分の言葉をネガティブに取られたりすることも増えた。
もう傷つきたくない――弱い自分を守るために、自らの露出と言葉を封じるしかなかった。
前園は”硝子の心”を持ったキャプテンだったのだ。
アトランタ五輪後、世間はブラジル戦での勝利を「マイアミの奇跡」と称賛。今なお、史上最大の番狂わせとして語り継がれている。
そして、日本がブラジルと対戦する時、あるいは日本がジャイアントキリングを起こした時、「マイアミの奇跡」が必ず歴史から甦る。ロシアW杯でも、初戦のコロンビア戦で日本が勝つと「サランクスの奇跡」と称され、「マイアミの奇跡」も例に挙げられて、もてはやされた。
そんな「マイアミの奇跡」の恩恵を、前園自身が本当の意味で受けたのは引退し、深酒して”事件”を起こしたあとのことだ。
「正直、現役の時は『マイアミの奇跡』のことばかり言われるのは嫌だったし、引退したあとも『またその話かよ』って感じだった。でも、”お酒の事件”ですべてを失って、声をかけてもらうことの大事さ、必要とされることのありがたさを身にしみて実感した。アトランタ五輪でも何でも(自分のことを)覚えていてもらって、声をかけてもらえるというのは、幸せなことだとわかったんです。
それに、自分の実績を考えると、アトランタ五輪が”ピーク”なんですよ。俺はW杯にも出ていないし、海外でプレーしたと言っても、自分が納得して恵まれたところでやってきたわけじゃない。アトランタがなかったら、今の俺はいない。たぶん、サッカーに携わる仕事ができていないんじゃないかな。
だから、”お酒の事件”以降、『マイアミの奇跡』のキャプテンという自分を、素直に受け入れられるようになったんです」
今では
「マイアミの奇跡」の恩恵を、素直に受け入れている前園真聖
2018年ロシアW杯では、前園は解説者として引っ張りだこだった。アトランタ五輪で西野監督とともに戦ったキャプテンとして、日本代表の指揮官としてW杯に臨む西野監督の思考や戦い方などを、1996年当時を振り返りながら解説していたのだ。
「西野さんは当時から、『”マイアミの奇跡”のことばかり言われるけど、ハンガリー戦で最後に試合をひっくり返して勝って終わったことも、もっと評価されるべきだ』と言っていた。西野さんは、ブラジルもハンガリーも関係ない。勝たないといけない試合で勝つことの難しさ、勝つために最後まであきらめない姿勢が大事だ、ということを言いたかったんだと思う。それは、今回のロシアW杯で、西野さんが日本代表を指揮したときにも見られたよね」
難敵のコロンビアに勝って新たな”奇跡”を起こし、ポーランド戦での、決勝トーナメント進出という”実”を取った戦いを見て、前園は決勝トーナメントに行けなかったアトランタ五輪での悔しさを、西野さんは忘れてはいなかったのだと確信した。
前園は、アトランタ五輪では満足な戦いができず、自らの弱さもあって、サッカー選手としては次のステージへと駆け上がることができなかった。それでも、西野監督を知る”元キャプテン”としての、ロシアW杯での解説が高い評価を受け、仕事の幅が広がり、”新たなステージ”を迎えることができた。
アトランタ五輪で悔しい思いをした監督とキャプテンが今、22年のときを経て、リベンジを果たしたのである。
(おわり)