私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第8回マイアミの奇跡に隠されたエースの苦悩~前園真聖(2)(1)から読む> アトランタ五輪の初戦、優勝候補のブラジルを下した「マイアミの奇跡」によって、日本中が沸いた。また、初戦をモノにしたことで…
私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第8回
マイアミの奇跡に隠されたエースの苦悩~前園真聖(2)
(1)から読む>
アトランタ五輪の初戦、優勝候補のブラジルを下した「マイアミの奇跡」によって、日本中が沸いた。また、初戦をモノにしたことで、残りのナイジェリア戦、ハンガリー戦への対策も講じやすくなり、決勝トーナメント進出への期待が膨らんでいた。
GK川口能活ら守備陣は、ブラジルの猛攻を最後まで耐え抜いて、かなりの手応えを感じていた。
だが一方で、前園真聖、城彰二、中田英寿ら攻撃陣は、ストレスを感じていた。勝つことはもちろん大事だが、攻撃が二の次になっていたことで、世界を相手に自分たちがどれだけやれるのか、サッカー選手としての力を推し量ることができなかったからだ。
各メディアが”奇跡の勝利”の要因について、キャプテンである前園の言葉を欲していた。しかし、彼は逆に言葉を遮断した。
ガチンコ勝負をさせてもらえなかったブラジル戦の勝利に、今ひとつ納得がいかなかった。そうした不満やストレスを抱えている状況で、外に向かって何かしら言葉を発すれば、誤解を招くようなことを言ってしまうかもしれない。もしそうなったら、チーム内に混乱が起こる――ならば、自らは口を閉ざして、余計なことは言わないほうがいいと思った。
「あのときは、メディア対応のやり方も、嫌だったんですよ」
当時のことを思い出して、前園はそう言って表情を歪めた。
アトランタ五輪の頃は、現在のようにミックスゾーンといった場がなく、練習後の取材は、練習場からバスに乗るまでの間に行なわれた。選手たちは歩きながら、各メディアの取材に応じていた。
「(あのときは)ものすごい人に囲まれてストレスを感じたし、窮屈だった。『すばらしい勝利』とか称賛されたけど、まだ決勝トーナメントに行けると決まったわけじゃないし、そもそも個人的にはブラジル戦(の戦い方)は納得していなかったからね。
自分のプレーがまったくできなかったし、サッカー的に満足できる部分がなかったので、気持ちにも余裕がなかった。プロとしての自覚がないとか、大人げないとかって思われるだろうけど、あのときは本当に『放っておいて』という感じだった」
前園の口数が減ったのは、アトランタ五輪の本番を迎えてからではなかった。正確には、アジア最終予選で五輪への出場切符を獲得したあと、帰国してからのことだった。
28年ぶりの五輪出場に日本中が沸いたが...。photo by Jun Tsukida/AFLO SPORT
28年ぶりの快挙達成に、ある意味、日本中はお祭り騒ぎだった。とりわけ、五輪出場を決めた準決勝のサウジアラビア戦で2ゴールを挙げた前園は、一躍ヒーローとなって、まさしく時の人になった。
「予選から帰ってきたら、世間が変わっていた。日本の盛り上がりがすごくて、びっくりした。だって、それまで俺は、別に注目されている選手ではなかったからね。だから、すごく注目されて、いきなりチヤホヤされて、かなり戸惑った」
帰国して以降、前園のプレーは常に注目されて、さらにプレー以外の私生活の部分にまで興味が注がれるようになっていった。テレビCMに抜擢され、サッカーファンだけでなく、世間一般の人にも認知されると、写真週刊誌などにも、しつこく追いかけられた。
気持ちが休まる時間や場所が激減し、前園のプライバシーはもはやないに等しい状況にあった。
「ピッチ上はともかく、ピッチを離れたときに、好奇の目というか、みんなの視線の変化を感じたね。(自分のことを)知ってもらうのはうれしいけど、普段からじろじろ見られたり、週刊誌に追い回されたりするのは、すごく嫌だった。
それに、自分の発言が、言ったことをそのまま正確に伝えられることなく、自分の意図とは違う形で伝えられたりもした。しかも、その発言の影響力がどんどん大きくなっていく……。それでちょっと、自分の”見せ方”がよくわからなくなった。自分で自分を守るために、メディアと距離を置こうと思ったんです」
空前の”前園ブーム”は、アトランタ五輪本大会が始まっても続いていた。いや、一層大きくなっていたと言ってもいいかもしれない。
キャプテンであったため、発言を求められたり、注目されたりするのは仕方がない。ただそれが、前園自身が受け入れられる、許容範囲を超えていた。
それまでに、サッカー選手が単独でこれだけ脚光を浴びたのは、おそらくカズ(三浦知良)だけである。前園は、カズの気持ちが理解できたのだろうか。
「多少は……(苦笑)。自分も代表メンバーに入っていた広島のアジア大会(1994年)のとき、カズさんはいつもメディアに囲まれていた。それを間近で見ていて、カズさんはいろいろなことを言われても、常に冷静に対応していて、すごいなって思っていた。
アトランタ五輪の頃、俺がカズさんのレベルにいったとは思わないけど、さまざまなことを書かれたり、(メディアなどに)ずっと追い回されたりするのは、こんなにストレスになるんだなって思った。
それまでは楽しくやってきたのに、いろいろな責任が自分にのしかかってきて、余裕がなくなり、表情がきつくなっていくのは、自分でもわかっていた」
アトランタ五輪大会期間中の練習後、バスに向かう前園は、目を吊り上げて、(自分に)”話かけないでオーラ”を漂わせていた。記者が話しかけてきても、ほとんど反応せず、ヘッドホンから流れる音楽で耳を塞ぎ、黙ってバスに乗り込んだ。
攻撃的なサッカーができない悔しさ、自分たちのサッカーではなかった試合の勝利に対する周囲の予想外の高評価、自分が思うようなプレーができない苛立ち……そうした思いばかりが、前園の中でドロドロと渦巻いていた。
アトランタ五輪当時のことを振り返る前園真聖
第2戦のナイジェリア戦は、勝てば決勝トーナメント進出が決まる大事な試合だった。とはいえ、相手はMFジェイジェイ・オコチャやFWヌワンコ・カヌなど、卓越した技術と驚異的なスピード、身体能力を持つ選手がそろった強豪チームだった。
そのため、戦い方はブラジル戦を踏襲し、再び超守備的なものとなった。
「初戦に勝ったからね。勝ち点3が取れたので、ナイジェリア戦はリスクを負わず、『ドローでもいい』という計算が監督にはあった。それに、相手もかなり強いチームだったので、守備的にいくのも仕方がないと思った。けど……実際に試合でプレーした手応えは(想定していたものとは)ぜんぜん違ったんです」
前半を戦った前園は、「あれっ?」と思ったという。
ナイジェリアは、スカウティング映像で見たスピードを生かした攻撃をほとんど披露せず、非常におとなしかった。逆に日本が、前園、城、中田の3人が連動してチャンスを作っていった。ブラジル戦では得られなかった”点が取れる空気”を、前園たち攻撃陣は強く感じることができていたのである。
「俺たち3人だけじゃなく、後ろからも押し上げて厚い攻撃ができれば、絶対に点が取れる」
前園はそう確信していた。
前半を0-0で終えて、ロッカールームに戻ってきた前園は、汗まみれのユニフォームを着替えもせずに、西野朗監督の前に立って、こう切り出した。
「監督、もう少し攻撃に人数を割いて、攻めさせてください。お願いします!」
その声は鋭く、血気に逸っていた。
ロッカールームに緊迫した空気が流れた。
西野監督は苦い表情で、前園の顔をしばらく見つめていた。
(つづく)