ベテランJリーガーの決断~彼らはなぜ「現役」にこだわるのか第6回:橋本英郎(東京ヴェルディ)/後編昨季、東京ヴェルディに移籍した橋本英郎(中央)。左はガンバアカデミーの後輩となる内田達也、右は永田充前編はこちら>> 前編(※11月16日…
ベテランJリーガーの決断
~彼らはなぜ「現役」にこだわるのか
第6回:橋本英郎(東京ヴェルディ)/後編
昨季、東京ヴェルディに移籍した橋本英郎(中央)。左はガンバアカデミーの後輩となる内田達也、右は永田充
前編はこちら>>
前編(※11月16日配信)で綴った「同期に恵まれた」との言葉にもあるように、橋本英郎のプロサッカー人生は、カルチャーショックを受けるほどの才能の差を見せつけられた「79年組」の同期に刺激を受けたことで形を変えてきた。
“プロ”になってからは、周囲との才能の差を肌身で感じたことが、本来はストイックではないはずの彼に、”間違わない努力”の必要性を備えさせた。と同時に、そのときどきの自分に現実的な目標を設定することで、堅実にサッカー人生のレールを敷き、その上を楽しみながら走り抜けてきた。
それは、今も変わらない。おそらくは、引退を決断するその日まで――。
◆ ◆ ◆
1998年にガンバ大阪のトップチームに昇格したとはいえ、橋本はアカデミー時代の同期をはじめとする、周囲の選手との明らかな才能の差に直面し、自身の物足りなさを自覚していたそうだ。だが、一方で「努力さえ怠らなければ、いつか試合に出られる」という自信も密かに秘めていたという。
というのも、アカデミー時代の彼はサッカーと勉強の両立に忙しく、本来ならその時代にすべきサッカーでの努力も、勉強の時間に充てていたからだ。だが、プロになり、その時間をサッカーに費やせるようになれば、もっと成長のスピードを上げられると考えた。
「プロになると同時に、一般入試で大阪市立大学に進学したため、プロになってからも多少は勉強もしたけど、高校時代に比べれば、格段に勉強時間が減りましたから。たとえ練習生でも、”プロ”の世界に足を踏み入れることさえできれば、これまでの倍近い時間をサッカーに充てられるし、『成長も望める』と考えた。そういう意味では、プロになってからの、サッカー中心の毎日は、すごく楽しく、いろんなことにポジティブに向き合えました」
また、”努力を間違わない”という意味では「指導者との出会いも大きかった」と振り返る。実際、プロになって試合に絡むことの少なかった10代の頃、当時の堀井美晴コーチに言われた言葉は、自分のプレーを確立するきっかけにもなった。
「試合に出られなかった時代、サテライトの練習を見てくれていた堀井さんとよく話をしたんです。そのときに『おまえは、足がずば抜けて速いわけでもなく、体力や体の強さがずば抜けてあるわけでもない。シュート力も大してない。じゃあ、どんな才能がある?』と聞かれて。僕が答えあぐねていたら、『ポジショニングだ』と言ってもらったんです。戦術眼を磨いて、的確なポジショニングをとれるようになれば、必ずそれで相手を上回れるようになる、と。
それはある意味、ポテンシャルの高くない僕にはすごくインパクトのある言葉でした。それも、プロの世界では1つの武器になると思えたことは、自信につながりました」
そんなふうに自分の武器を知ったうえで、必要な努力を続けることで、プロになった当初は「まずはJリーグに1試合出場すること」に据えていた目標も、少しずつ形を変えていった。
といっても、「もともと自分の才能への信頼が低かった(笑)」からか、どれだけ試合に絡めるようになっても、大きな夢を描くことは決してなかった。現に1試合をクリアすれば、5試合、次は20試合と、そのときどきで堅実に目標を定めてきた。
「試合に出ないまま引退する選手も見てきただけに、プロになったときから『まずは1試合』だと思っていました。じゃないと、将来子供に『プロサッカー選手だった』って胸を張って言えないな、と(笑)。それをクリアすると、徐々に目標試合数が増え、次第に『3年でクビにならないように』とか、『27歳まで現役選手でいられるように』と少しずつ目標が膨らんでいきました。
2002年に西野(朗)さんが監督に就任してからは、コンスタントに試合に絡めるようになったので、『それなら30歳を目標にしよう』と。そして20代後半から、チームが優勝争いや”タイトル”にも絡めるようになり、自分も日本代表に選ばれるようになると、『じゃあ、35歳だ』と。
そうこうしているうちに、32歳でヴィッセル神戸への初めての移籍を経験したら、さらに欲が生まれ、2015年にセレッソ大阪に移籍したタイミングで、目標を『37歳』に設定し直しました。しかも2年目に半年間、(J3の)長野パルセイロに期限付き移籍をして”J2昇格”を明確な目標に描いた戦いを経験したら、また楽しくなっちゃって。
昨年、38歳で東京ヴェルディに移籍してからは、『どうせなら40歳までやりたい』って思うようになった。というのも……やっぱりサッカーは自分がプレーするのが一番楽しいと気づいたから(笑)。だから……できることなら、死ぬまで現役でいたい。もちろん家族のことも考えれば、どこかで区切りをつけなきゃいけないと思っていますが、本音としては、まだやめたくない。
といっても、僕を『欲しい』と言ってくれるチームがなくなればそれまでなので、求めてくれるチームがあるなら、が前提ですが、可能ならもう少し楽しみたいなって思っています」
とはいえだ。そういった思いとは裏腹に、今年は近年にも増して、公式戦に絡めない状況が長く続いている。今年のJ2リーグへの出場は、わずかに4試合。その現状や年齢による体の変化については、どう考えているのだろうか。
「体の変化は正直、セレッソ時代に体力測定をしたときに感じました。それまで所属したチームでは、最低でも真ん中より上のグループにいたのに、セレッソでの1年目は下から数えたほうが早いくらいだったから。もちろん、当時のセレッソは若くて勢いのある選手の宝庫だったし、チームごとに選手層も違うので一概には言えないですが、『自分はそんなに下なのか』と衝撃を受けたのは事実です。
ただ、数字がそのままパフォーマンスに直結するわけではないですから。実際、まだまだやれる自信があったから去年、ヴェルディに移籍しました。その中で、とくに今季はそこまで公式戦に絡めていない現状はあるとはいえ、自分ではそこまでガクンと落ちてもいないのかな、と。……ってことを、天皇杯ラウンド16の浦和レッズ戦で実感しました。
あの試合は久しぶりの先発で、しかも相手はベストメンバーの浦和でしたが、思ったより動けたし、走れた。もちろん、相手は連戦中の試合だったし、僕自身も落ちる時間帯はありましたが、その辺は試合に出続ければ解決できる問題なのかな、と。
それに、浦和戦を戦うにあたっては、自分の中で久しぶりに、試合に向けて1週間をかけて緊張感を高め、体を合わせていくという準備をしましたが、すごく体力が消耗した反面、楽しくも感じられたので。
そういう緊張感を味わいながらサッカーをすることには、まだ飽きていない……どころか、そういう緊張感や公式戦にしかないスリル感を味わえる状態でサッカーができるなら、ステージはどこでもいいから、まだまだやりたい。って考えても……はい、現役に未練タラタラです(笑)」
そう言って笑った橋本は取材後、かかってきた一本の電話を受けると、何やら予約の相談を始めた。聞けば、新しく取り組もうとしている治療のスケジュール調整だと言う。
「今度、知人に紹介してもらった新しい治療を受けに、静岡まで行くんです。自分に合うかはわからないけど、面白そうなのでやってみようかなと。ずっと抱えている膝の痛みを少しでも軽くするのが目的ですが、これだけ酷使してきたら、完全に痛みはとれないと思います。というか……さきほどの体の変化にも通じる話ですけど、最近は痛くない場所がないことに気づきました(笑)。
ただ、僕は若いときから痛みには強いので。というか、少々痛いくらいで休みたくなかったんですよね。サッカーはやればやるほどうまくなるのがわかっているのに、1日でも、1試合でも無駄にしたくなかったし、周りにはいい選手がたくさんいたからこそ、そう簡単には休めなかった」
サラリといったその言葉に、「人は努力で変われる」と信じて走り続けてきた橋本の、21年のキャリアが重なり合う。
そして今も変わらず、そのことが彼の軸にあると考えれば――。ユニフォームを脱ぐ日は、もう少し先になりそうだ。