ベテランJリーガーの決断~彼らはなぜ「現役」にこだわるのか第6回:橋本英郎(東京ヴェルディ)/前編 1998年、ガンバ大阪のアカデミーからトップチームに昇格した。「79年組」と注目された黄金世代のひとりではあったものの、プロとしてのキャ…

ベテランJリーガーの決断
~彼らはなぜ「現役」にこだわるのか
第6回:橋本英郎(東京ヴェルディ)/前編

 1998年、ガンバ大阪のアカデミーからトップチームに昇格した。「79年組」と注目された黄金世代のひとりではあったものの、プロとしてのキャリアは大学に通いながらの”練習生”としてのスタート。それゆえ、当時の仲間も、指導者も、「まさか日本代表になるとは、思ってもみなかった」と声をそろえる。

 だが、周囲の予想をいい意味で裏切り、橋本英郎は着実にキャリアを積み上げ、日本代表入りを果たし、今もまだボールを蹴り続けている。プロとして21年目。「とにかく、サッカーをやるのが楽しくてたまらない」と屈託なく笑う39歳の今に迫る――。

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「79年組」――いわゆる「黄金世代」という呼称は、日本サッカー界では1979年4月〜1980年3月に生まれた選手を表現する際によく聞く言葉だ。

 1994年のU-16アジアユース選手権カタール大会での優勝や、1999年のU-20W杯ナイジェリア大会での準優勝に伴って定着するようになり、小野伸二(コンサドーレ札幌)、稲本潤一(コンサドーレ札幌)、遠藤保仁(ガンバ大阪)、小笠原満男(鹿島アントラーズ)、高原直泰(沖縄SV)、中田浩二、加地亮ら、その世代には名だたる選手が顔をそろえる。

 現在、東京ヴェルディに在籍するMF橋本英郎もそのひとり。今年でプロ21年目を迎えている彼の、ガンバ大阪時代に代表される実績や、日本代表としてのキャリアを鑑みれば、「79年組のひとり」として称されることに、異を唱える人はいないはずだ。



プロとして21年目を迎えた橋本英郎

 だが、橋本が「79年組」だと自覚するようになったのは、20代も後半に差しかかってから。ジュニアユース時代から在籍していたガンバ大阪には、同期に稲本や新井場徹らがいたが、アカデミー時代は彼らの存在すら遠く、先に挙げた世界を舞台にした戦いも、橋本には別次元の話だった。

「ジュニアユースに加入したときの、イナ(稲本)との出会いはカルチャーショックと言えるくらいの衝撃でした。彼以外にも藤原将平ら、関西選抜に名を連ねている選手が6人ほどいて、トレセンに選ばれたことすらなかった僕とは、明らかに違うレベルでした。しかもユースに昇格したら、そこにイバ(新井場)や町中大輔らが加わってきて……、同期でありながら(彼らはみんな)才能がえげつなすぎて、『ああ、イナやイバみたいな選手が将来、プロになるんやな』って思っていた。

 でも、そういう選手が近くにいると、否が応でも彼らについていこうと必死になるじゃないですか? 結果的に、イナは高校2年のときにトップに昇格して、そのあとすぐにイバも続いたので、ユース時代は彼らと一緒にプレーすることがほぼなかったけど、とにかく『イナとイバがプロの基準』と体感できたのは僕にはすごく大きかった。

 ただ……、これはあとになって気づいたんですけど、イナは『プロになる』どころか、当時の日本では数少ない『海外でプレーできる選手』という、もっと上のレベルで活躍する選手でしたから(笑)。そうやってJリーガーより、さらに上をいくイナを基準にプロの世界を意識していたおかげで、僕も”プロ”になれたのかもしれない」

 そんな同期のすごさを思えばこそ、1998年に自身がトップチームに昇格できたのは驚きだったと言う。というのも、当時の橋本は、高校3年生のときにこそ『なみはや国体』のメンバーに選ばれたものの、それ以外での実績では、年代別の代表に名を連ねていた稲本や新井場らに遠く及ばなかったからだ。

 また、両親との「サッカーと学業の両立」という約束を守るべく、高校のテストが近づくと練習を2週間ほど休んで、学業に力を注ぐこともあった。そのため、「僕の(トップチーム)昇格が決まった夏以降は、ユースチームの空気がちょっと悪くなりました」と苦笑いを浮かべる。

「そりゃあ、毎日ちゃんと練習に出てきていた同期にしてみれば、『なんであいつが?』となりますよね。実際、いまだにOB会で集まっても、当時の仲間には『中学のときはただ足が速いだけの選手やったし、ユースになってからも技術はぜんぜんやったよな』って言われます(笑)。

 だから、まさか僕がプロになれるとは誰も思っていなかったし、プロになったとしても、日本代表になるなんて想像すらしていなかったそうです。でも……自分で言うのもなんですが、人は努力で変われる、ということです。

 ただ、プロの世界の『努力』って、口で言うほど簡単ではないですからね。そこに付随するメンタリティも求められるし、努力だって、方向性を間違えば意味がなくなってしまう。そうなれば、ケガも増えるし、得られるチャンスの数も、出会える人の数も、変わってきますしね。

 そこを間違わずにこられたから、僕のような選手でもいまだにプレーできているのかもしれない。そこだけは少し胸を張れる部分です」

 とはいえ、1998年から始まった橋本のプロとしてのキャリアは、トップに昇格後、すぐに試合に絡み始めた同期の稲本や新井場のように順風満帆とはいかなかった。

 事実、1年目はまったく試合に絡めず、同じプロという土俵に立ってもなお、彼らとの「えげつない差」を感じるばかりだったと言う。だが、彼らに見る”才能”が自分にはないという自覚が、「人の何倍も努力をして初めて、自分はこの世界にとどまれる」という考えを芽生えさせたのだろう。

 しかもその思いは、2001年に遠藤や山口智がチームメイトになり、さらに2006年には明神智和(長野パルセイロ)や加地、播戸竜二(FC琉球)といった選手が次々と移籍してきたことで、より強くなっていったそうだ。

 それに比例して、橋本のスケジュール帳も、チームでの練習以外に、個人的に行なっていたトレーニングや治療の予定でびっしりと埋めつくされていった。

「僕って、もともとストイックさに欠けるんです。筋トレも嫌いで、やらなくて済むならやりたくないし、できればボールだけ蹴っていたい。それは今も変わりません。

 でも、同期も含めて、ガンバ時代は恐ろしいポテンシャルを備えた選手ばかり間近で見てきましたから。ヤット(遠藤)は、そもそものサッカー選手としての質が格段に高く、壊れないタイプの選手だったし、ミョウさん(明神)や智さん(山口)は圧巻のフィジカルを備えた、バケモン体質でした。

 それに比べると自分は、体はさほど大きくなくて壊れやすいし、筋肉量も周りに比べても明らかに劣る。つまり、一般人が運動している、くらいの体でがんばらなければいけなかったんです。だからこそ、それを補うものを身につける、プラスアルファのトレーニングをしなければついていけない状況でした。

 しかも、あの時代の選手は、もともと能力の高い選手が努力もするので、これまた厄介なんです(笑)。だから、僕も余計にやらざるを得なくなる。でも、さっきも言ったように僕にはストイックさがないですからね。できるだけ効率のいいトレーニングを選んだり、飽き性だからこそ、あえていろんな種類のトレーニングに取り組んだりと工夫はしていました。

 ですが、今になって思えば、それもよかったというか。飽き性のおかげで、いろんな人の話に耳を傾けて、いろんなことにチャレンジしたし、それによっていろんな人にも出会えた。

 さっきも言ったように、プロの世界での努力って、方向性を間違えば意味がなくなってしまう。それを思えば、見聞を広げることを楽しみながら、そのつど、自分にあったトレーニングを見つけてやってこられたのも大きかったと思います」

(つづく)