リターンを追うべく走り出したその足は、ボールがネットを越えることなく相手コートに落ちたとき、ひざから崩れ落ちるように動きを止め、勝利の……そして優勝の歓喜と安堵に浸された。 今から約1年半前の昨年3月̷…

 リターンを追うべく走り出したその足は、ボールがネットを越えることなく相手コートに落ちたとき、ひざから崩れ落ちるように動きを止め、勝利の……そして優勝の歓喜と安堵に浸された。

 今から約1年半前の昨年3月……。彼の足は同じようにボールを追い、そしてそのときは着地時の「抜けるような」感覚とともに、ガクリとその場へと崩れた。



優勝を決めた瞬間、西岡良仁はコートにひざから崩れ落ちた

 前十字じん帯部分断裂――。

 それは、男子のトップテニス選手には前例のない大ケガである。再建手術とリハビリにより、戦線離脱を強いられた期間は9カ月。その失われた時間と悔しさを乗り越えて、23歳の誕生日を3日前に迎えたばかりの西岡良仁は、8日間で7つの辛勝を掴み取り、深センオープンでATPツアー初タイトルをその手に抱いた。

 表彰式のスピーチで優勝者は、いたずらっぽい笑みを振りまきながら、詰めかけた地元ファンに英語で懇願する。

「まだ今季は大会が残っているので、そこでも結果を残したいと思います。どうか、僕の名前を覚えてください。僕は、『ニシコリ』ではないので。僕の名前は、『ニシオカ』です」

 170cmの小柄な優勝者が中国で称賛を浴びるその様を、日本では「ニシオカ」家の人たちが、パソコンのモニター越しに凝視していた。

 母親のきみえさんの心をもっとも震わせたのは、トロフィーを掲げる姿以上に、優勝を決めた直後にキャップを脱ぎ、目もとを覆う息子の姿。その目もとを濡らす涙を見ながら、彼女の脳裏には長い長い動画を巻き戻すように、昨年3月からの日々が駆け巡ったという。

「前十字じん帯が切れてるんじゃないかと言われた」

 昨年3月、マイアミ・マスターズ2回戦を途中棄権した息子から、1本のLINEが送られてきた。本人は、痛みは感じないという。だからこそ、なおのこと、告げられた重症と自身の感覚が重ならない……息子が抱くその不安は、母親の胸にも迫った。

「でも、歩けるんでしょ? だったら、お母さんよりマシよ。お母さんなんて、半月板と側副じん帯も切ったんだから」

 自身もテニスの試合で前十字じん帯を切った経験のある母は、そんな言葉で異国の息子を励ました。

 西岡がケガをした直後から、コーチやトレーナー、日本テニス協会のスタッフたちは迅速に対処すべく奔走し、帰国の日取りもすぐに決まる。

 予定にはなかった、西岡家の次男の帰国の日……。それはくしくも、長男でテニスコーチの兄の靖雄が武者修行のため、スペインのバルセロナに旅立つ日であった。長男を見送ると同時に、次男を迎えるためにも空港に出向いた母は、「手間が省けて助かったけれど……こんなところまで気が合うなんて」と、ふと思う。

 良仁をよろしく……そう言い残す長男を空港で見送ったその足で、母は次男の帰りを待った。

 車椅子でゲートを抜けてきた良仁は、母の顔を見るなり聞く。

「ヤス(靖雄)はちゃんと、スペインに行った?」

 似た者兄弟ね――複雑な思いを抱きながらも、母は笑うしかなかった。

 ケガから半年ほど経ち、術後の経過やリハビリも順当に進んだ9月中旬、男子国別対抗戦の日本対ブラジル戦が大阪市で開催される。ようやく走ることができるまでに回復していた西岡は、観戦に行くことを切望した。

 チームメイトたちの、国を背負って戦う姿を……そして勝利の瞬間に生まれる歓喜の輪を見て、「ひとり取り残されるような寂しさ」を抱えた西岡は、すべての試合が終わり観客も去ったコートへと、ラケットを手にして走り出ていた。

 その姿を見て驚く母親に、息子は「お母さん、ボール打っていいって!」と笑顔で手を振る。

「はしゃぎすぎて、ケガしないようにね!」

 母親は息子に、言葉を返した。

 復帰の時が近づいたころ、母にとって何よりうれしかったのは、「やっぱりテニスが好きだ。楽しい」の言葉が、息子から聞けたことだったという。

 ケガでコートから離れている間、西岡は多くの「新しいこと」を体験した。

 ずっと行きたかったライブにも行った。日本の夏祭りも堪能したし、乗馬やパドルボートなどにもトライした。

 それでも……「いろいろとやったけれど、テニスが一番」と西岡は言ったという。

「ケガしたことで、いいこともあった……」

 復帰できたからこそだとわかりつつも、今は素直にそう思えると、母は言った。

 パソコンの画面の向こうで、優勝し喜ぶ息子の姿が、1年半前の手術直後の記憶へと重なる。

 まだ足を動かすことができず、ベッドに横たわっている姿――。

 この子は、また戻ってこられるのだろうか? 胸をふさぐ不安を振り払うように、「大丈夫だよ。お母さんなんて、もっとひどかったんだから」と声をかけた。

 だが、そんな自分に向かい、「『大丈夫』という言葉に伴う責任を、あなたはどこまで取れるの?」と問う心の声が聞こえる。もし復帰できなかったときに、「大丈夫って言ったじゃないか!?」と息子に糾弾されたら、どうすればいいのか? そんな不安を抱えながらも、激励の言葉しか持たなかった。

 同時に思い出されるのは、この1年半の間にサポートしてくれた、多くの人々の顔である。

 マイアミでケガをしたとき、移動の手段も含め、すぐにサポート体制を築いてくれた方々。

 帰国した直後に診察を受けた3人のドクター、そして、診察結果を見てリハビリプランを素早く立ててくれたJISS(国立スポーツ科学センター)の人々。

「良仁くんの部屋は、いろんな音楽がかかってて楽しいね」と笑顔で応対してくれた、看護師の方たち。地道なリハビリを指導してくれた理学療法士、SNSで応援メッセージをくれたファンの方たち……。

「表には出てこない、公(おおやけ)にならない、いろんな人々」の姿が脳裏を巡り、そうしてふたたびベッドに横たわる1年半前の息子の姿が、目の前のモニターのなかで喜ぶ姿へと重なった。

「よかったね、がんばったね」

 気がつけば、パソコンの画面をなでていた。

 表彰式のスピーチで西岡は、大会関係者やコーチたちに謝意を述べた後、「ここには家族はいないけれど、映像が何かで見てくれているんじゃないかな?」と言及した。

「ありがとう」

 まっすぐな感謝の言葉は、日本語で伝えられる。

「英語がわからない親のことを思って、日本語で言ってくれたのかな?」

 簡潔な言葉に込められた、万感の想い……。それらは確実に、パソコンの向かいに座る両親へと届いていた。