コート上の錦織圭は、なかなかの役者である。 相手にチャンスボールを与えたとき、あきらめたかのようにうつむき、トボトボと歩いたかと思いきや、突如として走り出し、油断した相手の甘いボールを打ち返すことがある。巧者ペールを下してベスト8進出…

 コート上の錦織圭は、なかなかの役者である。

 相手にチャンスボールを与えたとき、あきらめたかのようにうつむき、トボトボと歩いたかと思いきや、突如として走り出し、油断した相手の甘いボールを打ち返すことがある。



巧者ペールを下してベスト8進出を決めた錦織圭

 この試合の第1セットの、第4ゲームでもそうだった。相手のドロップショットに全力で駆け込み、ネット際ギリギリで打ち返すも、そこにはすでに相手のブノワ・ペール(フランス)が待ち構えている。

「あ、やられた……」

 さも、そんな声が聞こえそうな身体でうなだれるも、次の瞬間にはオープンコートへと素早く飛び込み、ペールが放ったショットをボレーで鮮やかに打ち返した。試合の趨勢(すうせい)を大きく決める、早々に奪ったこの日ふたつ目のブレークゲーム。

「あんまり言いたくはないんですけどね……」

 試合後に、件の場面について問われた錦織は、いたずらを咎(とが)められた子どものように、決まりの悪そうな笑みを浮かべて白状した。

「演技です」――と。

 演技力は、錦織のテニスプレーヤーとして欠かせぬ資質のひとつだと言えるかもしれない。バックハンドでクロスに打つと見せかけて、ストレートへと叩き込む。あるいはフォアの強打を打つと見せかけ、ドロップショットをするりとネット際に沈める。

 その手のトリッキーなプレーは、この日(2回戦)の相手であるペールの十八番でもあるが、錦織は相手の対策も十分に練ったうえで、彼らしいプレーも披露した。

「世界で五指に入る」と警戒するペールのバックを打たせぬために、フォアを中心につきながらも、狙いを絞らせぬようボールを前後にも散らす。本人も「ほぼ完璧」と自画自賛した第1セット序盤では、ドロップショットで相手を釣り出してボレーを決めたり、飛び跳ねながらスピンをかけたフォアを鋭角にねじ込んだり、錦織の創造性と”演技力”が光った。

 第1セットの終盤、さらには第2セットの序盤で相手に連続でゲームを奪われる場面もあったが、劣勢なときほど冷静なプレーで踏みとどまる。

「フリーポイントを与えず、彼のミスを誘うなど、嫌な展開になりそうなときほど、すべきことを頭に入れてプレーできた」と、試合後の錦織は落ち着き払った表情と声のトーンで振り返った。

 彼がここで言う「すべきこと」には、サーブで確実にポイントを奪うことが高い重要性を帯びて含まれる。今年の楽天ジャパン・オープン開催地であるスポーツアリーナのハードコートは、錦織曰く「けっこう速いほう」に属するようだ。風や陽光の影響を受けないインドアは、ただでさえサーブの優位性が増す。

 加えてこのコートは「スライスがすごく曲がったり、けっこう球種を変えて効果が出るサーフェス」だ。そこで今大会の錦織は、特に「ファーストを入れることと、コースを決めること」に留意しながら戦っているという。

 サーブは、ケガによる約半年の戦線離脱から復帰してきた彼が、フォームからルーティーンに至るまで、もっとも大きく変えた点でもある。「まだ試行錯誤の部分は若干ありますが、だいぶ武器になっている」と自信を深めるそのサーブを中軸とし、全体としては主導権を掌握したまま、難敵ペールを6-3、7-5で退けた。

 試合が終わった瞬間、錦織が立つコートサイドには、なだれを打ったようにファンがサインや写真を求めて押しかける。さらに、この日の試合後には、観戦に訪れていたF-1レーサーのニコ・ヒュルケンベルグとの2ショット写真の求めに応じる場面もあった。今や錦織が、テニスファンのみならず多くの人々がそのプレーを目に焼きつけ、何かしらの思い出を持ち帰りたいと願う大スターであることは、あらためて言うまでもないだろう。

 だが、コートを離れ、手にした紙パックのジュースをストローで飲みながら会見席に座る彼は、まだどこか自分が座すその地位に居心地の悪さを覚えているようですらある。スターアスリートにプレーを見られることに関して問われても、「いや、見られているという意識はあんまりないですね、まだ……」と困ったような笑みをこぼした。

 コート上の演技力と、コートを離れたときに見せる、あまりに自然体で素朴な佇(たたず)まい。

 それら両極端とも言える得難い資質を両輪とし、錦織は次なる戦いへと挑む。