【短期連載】鈴鹿F1日本グランプリ30回記念企画 10月5日~7日、三重県の鈴鹿サーキットにてF1第17戦・日本GPが開催される。 同地でのF1開催は、今年で30回目。その記念すべき2018年大会を盛り上げるべく、日本GPで名バトルを繰…

【短期連載】鈴鹿F1日本グランプリ30回記念企画

 10月5日~7日、三重県の鈴鹿サーキットにてF1第17戦・日本GPが開催される。

 同地でのF1開催は、今年で30回目。その記念すべき2018年大会を盛り上げるべく、日本GPで名バトルを繰り広げたレジェンドドライバーたちがやってくる。鈴鹿サーキットを駆け抜けた名マシンに乗り込み、週末にはデモンストレーションランなども行なわれるが、そのなかでもひと際注目なのがジャン・アレジだ。

F1日本GP「伝説の瞬間」(1)から読む>>>



1994年の日本GPで雨のなかを激走するフェラーリのジャン・アレジ

F1日本GP「伝説の瞬間」(6)@ゲストドライバー編
ジャン・アレジ(1994年~1995年)

 1964年生まれのフランス出身。1989年の途中にティレルからF1デビューしたアレジは、1991年に名門フェラーリへと移籍を果たす。当時のエースナンバーであるカーナンバー27をつけ、常にコース幅いっぱいまで攻める闘志むき出しのドライビングは、フェラーリの地元イタリアの熱狂的ファン「ティフォージ」をはじめ、世界中のファンを魅了した。

 合計13シーズンにわたって活躍し、出走回数は歴代17位タイとなる202戦を誇るが、表彰台の中央に立ったのは1995年のカナダGP、その1回のみである。ただ、アレジは同世代のチャンピオンたちに負けない互角のバトルを繰り広げ、F1ファンの記憶に刻まれるレースを何度も見せてくれた。

 そのなかでも、とくにファンの間で語り継がれているのが1994年の鈴鹿だ。決勝レースは大雨に見舞われ、途中に発生したアクシデントで赤旗中断となる大荒れのレースとなった。そんななか、ナイジェル・マンセル(ウイリアムズ・ルノー)を相手に一歩も引かない走りを披露し、再開後のレース後半を大いに盛り上げたのがアレジだった。

 マシンパフォーマンスで勝るウイリアムズに何度も横に並びかけられるが、アレジも意地を見せて一歩も譲らない。すぐ後ろからプッシュしてくるマンセルをがっちりと押さえ込み、何周にもわたって白熱のバトルを展開した。その気迫の走りに、スタンドに詰めかけたファンは釘付けになった。

 最後の最後でマンセルに抜かれてしまったものの、途中の赤旗によって2ヒート制が採用された結果、アレジは3位表彰台を獲得。優勝したのはデイモン・ヒル(ウイリアムズ・ルノー)だったが、このときの鈴鹿で一番の喝采を浴びたのは、間違いなくアレジだった。

 1995年の日本GPでは、当時頂点を争っていたベネトンとウイリアムズの2チームに割って入る速さを予選から披露する。この年のワールドチャンピオンに輝いたミハエル・シューマッハ(ベネトン・ルノー)には及ばなかったものの、予選2番手を獲得。鈴鹿サーキットで、ふたたびアレジの走りに期待が集まった。

 決勝日はレース前まで降り続けた雨の影響で、またもウェットコンディション。アレジはスタートでまさかのフライングをとられてしまい、10秒のペナルティストップを命じられる。一時は10番手まで後退し、これで万事休すかと誰もが思った。

 しかし、アレジは雨が止んで乾き始めている路面を見て、いち早くスリックタイヤへと交換。その後、前方を走るマシンを次々と抜き去っていく。あっという間にペナルティ分の遅れを取り戻して2番手に浮上すると、さらにファステストラップを連発しながらトップを快走するシューマッハを追いかけた。

 そしてついに、アレジはシューマッハを射程圏内に捉える。ファンのボルテージは最高潮に達した。ところが25周目、アレジのマシン後部から突如、白煙が上がってスローダウン。驚異的な追い上げはここで打ち止めとなり、悔しくもリタイアを余儀なくされた。

「あのままのペースで、シューマッハに追いついていたら……」

 そんな想像をした人も多かっただろう。1994年のバトルと並び、1995年も鈴鹿サーキットの主役はアレジだった。

 アレジは2001年のシーズン終了後にF1を引退。現在はF1を目指して奮闘している息子のジュリアーノ・アレジを全面サポートするほか、同郷のフランス人若手ドライバーの育成にも力を注いでいる。

 そんなアレジが今年、F1日本GPにやってくる。フェラーリのエースとして活躍していたころから20年以上経つが、その当時にタイムスリップできる瞬間が10月に鈴鹿サーキットで控えているのだ。とくに往年のF1ファンにとっては、絶対に見逃すことができない瞬間となるだろう。

(つづく)