坂井聖人インタビュー(前編) 8月のパンパシフィック選手権、200mバタフライで瀬戸大也(だいや)が優勝した。ガッツポーズをして、弾けた笑みを見せるその姿を、坂井聖人(まさと/セイコーホールディングス)は自宅のテレビで観ていた。「不思議…
坂井聖人インタビュー(前編)
8月のパンパシフィック選手権、200mバタフライで瀬戸大也(だいや)が優勝した。ガッツポーズをして、弾けた笑みを見せるその姿を、坂井聖人(まさと/セイコーホールディングス)は自宅のテレビで観ていた。
「不思議で不自然な感じでした。瀬戸さんが優勝してうれしかったですけど、『なんで自分はそこにいないのかな』って思っていました」
リオ五輪で銀メダルを獲得し、東京五輪のホープとして期待された坂井聖人だったが...
坂井は、リオ五輪、200mバタフライ(通称2バタ)の銀メダリストである。
当時、世界最強と言われていたマイケル・フェルプス(アメリカ)とラスト50mを競り合い、0.04秒差で惜しくも2位。あれからわずか2年、坂井はパンパシに出場できないばかりか、競泳日本代表のメンバーからも漏れてしまった。
坂井にいったい何が起きたのだろうか――。
2016年8月9日、リオ五輪200mバタフライ決勝、坂井は「ラスト50mで勝負する」ことだけ頭に入れていた。もともと詳細なレースプランを考える方ではない。今の自分の調子のよさを考えると、ラスト勝負で十分にいけるという判断だった。
100mまでは自分の泳ぎだけを意識し、周囲の選手に前に出られても惑わされることなく、冷静に泳ぐことができた。150mまでは6位だったが、それでも落ち着いていた。隣のレーンはロンドン五輪の金メダリスト、チャド・レクロー(南アフリカ)が先行していた。
「レクローに勝てばメダルは堅いなと思っていたので、少し離されていましたけど、ラスト50mで絶対に抜くという気持ちでいました」
ラスト50mに入ると、坂井は一気にギアを上げた。
「そこで完全にスイッチが入りました」
そこからは無我夢中だった。ゴーグルが曇っていたので、レクローを抜いたのはなんとなく見えたが、フェルプスがどこの位置にいるのかまではわからなかった。
「とりあえず上位にはいる。あとはメダルの色の勝負だな」
そう思って懸命に水を掻いた。
ゴールにタッチした瞬間は何位なのかわからなかったが、横を見たらフェルプスがいた。
「えっ?」
そう思い、電光掲示板に視線を向けた。坂井は視力が悪く、コンタクトレンズをしていないので、ボヤけてよく見えなかった。「何位なんだろう」と思い、コース台のランプを見た。それは選手の順位を示すランプだった。坂井のコース台のランプは2つ点灯していた。
「2位かって思って、思わずガッツポーズが出ました」
しかし、すぐに冷静になり、あれだけ追い込んでも金メダルを獲れなかったことに悔しさが募った。最後、どのくらい離されたのか、コーチにラップタイムを聞いた。
「0.04秒差だ」
人差し指の第一関節ぐらいのわずかな差だった。坂井は驚異的な泳ぎを見せ、ラスト50mで唯一の29秒台を叩き出し、失速したフェルプスを追いつめたのだ。
「0.04秒差って言われると、余計に悔しくなりました。ラスト50mでもっと攻めればよかったし、あと5mあれば差せたなとか、いろいろ考えました。でも、これが世界を制してきた選手との経験の差でもあるなって思いましたね」
タイムは1分53秒40、自己ベストだった。タイムはもちろんすばらしいが、それ以上に坂井にとって価値のあるメダルだった。
「このときはメダルを狙い、獲りにいって獲れた。『メダルを獲れたらいいな』っていう考えだと獲れないし、失敗することが多いんです。まぐれで獲れたメダルではないので、価値はすごく大きいと思っています」
もちろん、気持ちだけではメダルは獲れない。
「僕の調子が完全にハマりましたね。決勝のレースに最高のコンディションになるように高地トレーニングから下山する日を考えるなど、ピーキングがばっちりうまくいった。隣にレクローがいるなどコースにも恵まれました。何もかもすべてがうまくいったからこそ獲れたメダルでした」
世界王者フェルプスを追いつめたレースは日本中を熱狂させた。坂井は一躍、水泳界のヒーローになったのである。
坂井は、3歳のときに兄の影響で水泳をスタートした。小学6年のときにバタフライに転向し、柳川高校(福岡)1年のとき、100mバタフライで高校総体優勝。3年のときに200mバタフライで高校総体優勝、世界ジュニア2位、国体で優勝し、瀬戸に憧れて早稲田大学に進学した。2016年のリオ五輪で銀メダルを獲得したのは、21歳のときだった。
若きメダリストとして注目を浴び、11月には彩の国スポーツ功労賞を受賞した。まだまだ伸び盛りで、次の東京五輪に向けて金メダルを狙いにいくのは必然だった。
ところが帰国後、なんとなく気持ちが乗らず、練習にも身が入らなくなった。
「リオ五輪後、燃え尽き症候群みたいになったんです。自分では意識していないし、そんな気はなかったんですが……ボンヤリして周囲からは『気持ちがキレているんじゃないか』と言われるようになり、なんか練習にも身が入らなくて……」
メダル獲得という目標を達成し、その安堵感や達成感から次の目標を見失い、一時的に気持ちが上がらない。そうしたことは坂井に限らず、メダリストに起こりうることだ。
ただ、坂井の場合、気持ち的には下がっていたが、さほど深刻に考えなかった。そういう状況でもタイムが出ていたからだ。リオ五輪後のインカレでは、200mバタフライで1分54秒06の大会記録を出して優勝。2017年の日本選手権の200mバタフライでは1分53秒71で瀬戸を抑えて優勝した。タイムも成績も安定していた。
「このとき、気持ちはそこまで入ってなかったんですけど、練習はできていたし、レースの後半も全然バテないんです。自分でも『なんでこんなに調子がいいんだろう』って不思議でした。たぶん、コンディションがすごくよかったんだと思います。日本選手権のときも53秒台が出ましたが、タイム的には納得できない。もっといいタイムを出せる自信がありました」
東京五輪に向け、無類の強さを見せる坂井への期待は大きく膨らんでいった。だが、好調は長くは続かなかった。
最初に異変を感じたのが2017年世界水泳選手権だった。200mバタフライで瀬戸が3位に入賞したが、期待された坂井は6位に終わった。
「この大会は絶対にメダルが獲れると自信満々だったんです。でも、レース前に泳いだとき、手で水を掻く感覚が今ひとつ掴めなくて、すぐに腕がパンパンになったんです。これはまずいなって思って挑んだら、やっぱりダメでした。結果は6位でタイムも55秒台。これって大学1年の時のタイムなんです。なぜ、いきなりここまで落ち込んだのか、正直よくわからなくて……」
このとき、坂井はさらに高みを目指すためにレースへのアプローチを変えていた。高地トレーニングから下山して1週間後にいい記録が出るというデータから、世界選手権の3日前に下山した。そしてレースに挑んだのだが、新しいチャンレンジは結果に結びつかなかった。
世界水泳選手権が終わり、帰国するとメダリストたちは別室で記者会見をする。6位の坂井は報道陣の前で報告することもなく、そのまま帰宅した。
「空港から直帰したときは恥ずかしかったし、すごくイヤでした。『リオのときはあっち(メダリスト)に行ったのになぁ』って。でも、これが勝負の世界だって、あらためてその厳しさを感じました。ほんとマジで悔しかったですけどね」
その悔しさをバネに、2018年全日本選手権での優勝を目指して練習をスタートした。パンパシフィック選手権の出場権も兼ねた大会で、2017年は優勝しており、連覇がかかっていた。
2018年4月6日、日本選手権200mバタフライ決勝が行なわれた。
そこで坂井を待っていたのは、衝撃的な結末だった。
(後編につづく)