【短期連載】鈴鹿F1日本グランプリ30回記念企画 みんな、この瞬間を待っていた。鈴木亜久里が表彰台に立ってから22年――。日本人が鈴鹿サーキットでトロフィーを持ち上げるシーンが、2012年にふたたび訪れる。小林可夢偉がついに10万300…

【短期連載】鈴鹿F1日本グランプリ30回記念企画

 みんな、この瞬間を待っていた。鈴木亜久里が表彰台に立ってから22年――。日本人が鈴鹿サーキットでトロフィーを持ち上げるシーンが、2012年にふたたび訪れる。小林可夢偉がついに10万3000人の観衆の夢を叶えた。

F1日本GP「伝説の瞬間」(1)から読む>>>



メカニックがずっと持っていた日の丸の前で歓喜する小林可夢偉

F1日本GP「伝説の瞬間」(5)
ザウバー小林可夢偉の3位表彰台(2012年)

 サーキットが一体になる。全長5.807kmに及ぶ鈴鹿の全周にわたって取り囲む、10万人を超える大観衆がひとつになった。それは、すさまじいエネルギーが大観衆を突き動かしたからこそ、起こり得た。疑いようもなく、彼はそれほどまでに大きな感動を生み出してみせたのだ。

 2012年のF1は、開幕から7戦で勝者がすべて異なるほどの大混戦だった。

 そんななかで、ザウバーは中堅チームらしからぬ躍進を見せ、マシン特性に合った高速コーナーが多くバンピーでないサーキットでは抜群の速さを見せた。上海(第3戦・中国GP)では予選4位、バルセロナ(第5戦・スペインGP)では予選5位、スパ・フランコルシャン(第12戦・ベルギーGP)では予選2位という驚異的な速さだった。

 しかし小林可夢偉にとって、2012年は決して楽なシーズンではなかった。

 チームメイトのセルジオ・ペレスが第2戦・マレーシアGPであわや優勝かという好走を見せ、2位で初となる表彰台を獲得すると、第7戦・カナダGPでも3位、そして第13戦・イタリアGPでも2位と、計3度の表彰台を獲得し、エースドライバーの可夢偉は焦りを募らせていた。

 ペレスは豪雨で赤旗中断から路面が乾いていくセパン(マレーシアGP)で、ギャンブル的な戦略がピタリとハマった。カナダGPでも、イタリアGPでも、スタートからプライムタイヤでできるだけ長く引っ張るギャンブル的な戦略が、見事なまでに当たった。定石どおりの戦略を採った可夢偉にも同じように表彰台のチャンスはあったはずだが、カナダ、イタリアともにペレスのほうが予選で後ろにいたからこそできたギャンブルであり、それが表彰台につながったのは皮肉だった。

 一方、ザウバーが実力で速さを発揮できるサーキットでは、こうしたギャンブルは採らず、当然ながら表彰台には手が届かない。実力不足のサーキットではギャンブルに出て、これが時として当たるが、ギャンブルのチャンスを与えられるのは後方のペレスで、可夢偉はポイント獲得がやっと。可夢偉は第1戦・オーストラリアで6位、第5戦・スペインで5位、第10戦・ドイツで4位と速さを見せたが、何とも皮肉なことにこうして可夢偉とペレスの差は開いていったのだ。

 そんななかで迎えたのが、第15戦・日本GPだった。

 ザウバーC31とフェラーリエンジンには抜群の相性で、予選は可夢偉4位、ペレス6位。絶対に可夢偉に表彰台を獲らせてやりたい――。そんなチームの思いが込められたフロントウイングなど、シーズン最後の空力アップデートもこの鈴鹿に持ち込まれて効果を発揮した。

 可夢偉としては、なんとしてでもここで表彰台を獲りたかった。いや、獲らねばならなかった。

 母国グランプリといえども、「20戦のうちのひとつでしかない。いつもどおり戦う」と口では言うものの、過去2回の鈴鹿では母国ファンの期待に大きな重圧を受け、決していつもどおりのレースはできなかった。そこに表彰台への重圧も加わる。

 それでも可夢偉は「表彰台に乗って当然」と言って、自分にプレッシャーをかけていた。「まだ表彰台に乗れてないのがダサいっていうか、奇跡的なくらい不運続きやった。とにかく鈴鹿ではクルマが速い。だからあとは、普通のレースができればいいんです」と、肩の力を抜くことも忘れなかった。

 その言葉どおり、可夢偉はスタートで好発進を決め、1~2コーナーまでにレッドブルのマーク・ウェバーをかわして2位に浮上。10万3000人が詰めかけた観客席は熱狂に包まれた。

 首位セバスチャン・ベッテル(レッドブル)は速く、2位の可夢偉は3位のジェンソン・バトン(マクラーレン)との直接対決になった。その後ろには4位のフェリペ・マッサ(フェラーリ)も控えている。

 14周目にバトンがピットインし、アンダーカットを仕掛けてくる。前が開ければ、後方のマッサが本領を発揮してプッシュしてくるのは目に見えていたが、可夢偉はバトンの前にとどまるべく、ここでピットに飛び込んでバトンの前でコースに戻った。目の前にはまだピットインしていないトロロッソのダニエル・リカルドがいてタイムロスを喫し、18周目まで引っ張ったマッサは案の定、可夢偉の前で戻り、2台のオーバーカットを成功させた。

「バトンかマッサ、(前にとどまるには)どちらかを取るしかなかったんです」

 いつもは焦って取り乱し、戦略をミスするザウバーの技術陣も、このときは冷静だった。1台に先行されても、まだ3位。

 レース終盤に向けて、バトンは追撃の手を強めてきたが、可夢偉は先に2度目のピットストップを済ませ、バトンにアンダーカットのチャンスを与えなかった。

 バトンにはチームから「表彰台を獲りにいくぞ」と容赦ない無線が飛び、可夢偉とのタイム差は2秒を切ってくる。ピットウォールでは、何としてでも可夢偉に表彰台に上がってもらいたいモニシャ・カルテンボーン(ザウバー代表)が手を合わせて祈り、チームマネージャーのベアト・ツェンダーは頭を抱えて、もうモニターを見つめることすらできなくなっていた。

 しかし、この日のタイヤの保ちがよくないことを察知していた可夢偉は、レース中盤にわざとペースを抑えて走り、リアタイヤを温存していた。そして、レース終盤のバトンからの猛攻に備えていたのだ。

 可夢偉は53周を走り切り、3位でチェッカードフラッグを受けた。

 その瞬間、サーキット中が大興奮に包まれ、「可夢偉! 可夢偉!」と可夢偉コールが沸き起こった。可夢偉のファンも、バトンのファンも、優勝したベッテルのファンも、誰もが目の前で繰り広げられたすばらしいレースと、そこに辿り着くまでの苦難のドラマに感動していた。

 可夢偉も、チームも、この鈴鹿という舞台でついに「普通のレース」ができた。運でもギャンブルでもなく、実力で表彰台を勝ち獲ってみせた。それはたった1回の表彰台かもしれないが、ギャンブルで得た何回もの表彰台よりも価値のあるものだった。

 チームの財政状況を理由にこの年限りで可夢偉と離別しなければならなかったモニシャは、こうして最後に可夢偉が表彰台に立てたことに、涙を流して喜んだ。

「母国の大観衆の前で表彰台に立てて、最高の気分でした。これまで何度も(表彰台の)チャンスがあったのに、不運で掴めなかった。でも、母国で初めて表彰台に上がる。それが僕の運命なんじゃないかって。レース前にそんな話をしたんです」

 レース後、ザウバーのスタッフたちは表彰台と記者会見から戻ってくる可夢偉を待ち受け、担当メカニックのひとりがずっと持っていた大きな日の丸を広げて抱き合い、歓びを分かち合った。それだけ、チームに愛された男だった。

 日本人が、日本で初めての表彰台に立つ。大観衆からも、チームからも、心から望まれてそんな夢を叶え、大きな感動を与えてくれた。

 あの瞬間を上回る感動が、またいつか味わえることを願ってしまう。だから我々は、今年もまた鈴鹿に足を運ぶのだ。