【短期連載】鈴鹿F1日本グランプリ30回記念企画 2005年のF1日本GPは、鈴鹿史上もっとも美しい逆転劇で幕を下ろした。驚異的な走りを見せたのは、マクラーレン・メルセデスのキミ・ライコネン。圧倒的な速さで成し遂げた「16台抜き」は、鈴…

【短期連載】鈴鹿F1日本グランプリ30回記念企画

 2005年のF1日本GPは、鈴鹿史上もっとも美しい逆転劇で幕を下ろした。驚異的な走りを見せたのは、マクラーレン・メルセデスのキミ・ライコネン。圧倒的な速さで成し遂げた「16台抜き」は、鈴鹿サーキットの歴史に深く刻まれたに違いない。

F1日本GP「伝説の瞬間」(1)から読む>>>



当時25歳のキミ・ライコネンが鈴鹿で驚愕の走りを見せた

F1日本GP「伝説の瞬間」(4)
ライコネン、最終ラップの逆転劇。フィジケラ無念(2005年)

 人は人智を超えた光景にこそ、心を震わせる。2005年の鈴鹿F1日本GPは、まさしくそんな感動にあふれていた。

 感動を演出したのは、予選だった。

 この年は全20台が順に1周ずつタイムアタックを行なう方式が採られ、前戦結果の下位から順にコースインしていった。すると、午前の雨で濡れた路面が徐々に乾いていくなか、終盤に差しかかったところで鈴鹿にはふたたび激しい雨が降り始め、実力的に勝る有力チームが予選下位に沈むという波乱が起きたのだ。

 その結果、トヨタのラルフ・シューマッハがポールポジション、BARホンダのジェンソン・バトンが2番グリッドと、日本勢がフロントロウに並ぶことになる。前戦ブラジルGPで初の王座獲得を決めたルノーのフェルナンド・アロンソは16位、マクラーレンのキミ・ライコネンは17位、フェラーリのミハエル・シューマッハも14位からのスタートとなった。

 決勝は打って変わって快晴。ドライバーとマシンを試すようなコーナーが連続する鈴鹿は、F1屈指のドライビングが楽しめるサーキットである反面、決勝ではオーバーテイクが難しい。後方グリッドに沈んだドライバーにとっては、極めて苦しいレースになるだろうと誰もが思った。

 レース序盤はポールのラルフ・シューマッハがリードしたが、3回ストップ作戦のため早々に後退。有力チームでは唯一上位の3番グリッドにつけていたジャンカルロ・フィジケラ(ルノー)が代わってリードすることになった。

 その間にシューマッハ、アロンソ、ライコネンは大方の予想に反して、中団勢をものともせず次々とオーバーテイクしていき、あっという間に5位争いにまで浮上してきた。19周目にはアロンソがバックストレートでシューマッハのスリップストリームに入り、130Rへ向けてインを守るシューマッハをアウト側から豪快に抜き去ってみせる。

 レース中の給油が許されていた当時、マシンは常に軽く、バトルでもこうした軽快で豪快な挙動を見せていた。それも、ライコネンやアロンソが後方から追い上げるすさまじい走りを見せることができた理由のひとつだ。

 そして戦略面でも、ライバルより少しでもピットストップを遅らせることができれば、その間は給油後のライバルよりも格段に軽い状態で速く走ることができる。

 22周目にピットインしたアロンソに対して、ライコネンは26周目まで引っ張ってオーバーカット。ライコネンは30周目の1コーナーでアウト側からシューマッハをオーバーテイクして、ついに4位まで浮上してきた。首位フィジケラ、2位バトン、3位にはウイリアムズのマーク・ウェバー、ライコネンの後方にはアロンソ、シューマッハの順だ。

 40周目に2度目のピットインをしたバトンとウェバーに対し、ライコネンはファステストラップ連発の走りで45周目までプッシュし続け、ふたたびオーバーカットを成功させる。本来の速さに優るマクラーレンのポテンシャルを、クリーンエアで最大限に生かしたのだ。

 2005年の王座はアロンソとルノーに奪われたとはいえ、この年のマクラーレンは純粋な速さでは最速だった。ただし、マシンやエンジンにトラブルが多く、速さが結果に結びつかないことが多かった。F1にもコスト削減の波が訪れ、レース週末のエンジン交換には10グリッド降格ペナルティが科されるようになり、ライコネンはその影響をもっとも多く受けたドライバーのひとりだった。

 コスト削減の観点から、1セットのタイヤで決勝を走り切らなければならないという規定が設けられたのも2005年の特徴だった。

 マクラーレンやルノーが使うミシュランはこの年、タイヤ開発戦争の末にブリヂストンに大差をつけてシーズンを席巻。だが、インディアナポリスで行なわれたアメリカGPではオーバルのバンクでタイヤにかかる負荷を受け止めきれずに決勝レースから撤退するという騒動を起こした。ライコネン自身もニュルブルクリンクのヨーロッパGPでは、フラットスポットによる振動が発生していたにもかかわらず走り続け、最終ラップにフロントサスペンションが弾け飛んで優勝を失うという苦い経験をしていた。

 だからこそ、鈴鹿では後方からアグレッシブに追い上げながらも、最後までしっかりとタイヤを保たせるタイヤマネージメントも徹底していた。

 最後のピットストップを終えて2位でコースに復帰したライコネンだったが、首位フィジケラとの間にはまだ5.4秒のギャップがあった。残りは8周――。

 それでも、ライコネンはあきらめなかった。フィジケラのタイヤは摩耗が進み、ペースが上がらない。ライコネンは1周で2秒も速いペースで猛烈な追い上げを見せ、一気に背後へと迫る。

 残り2周となる51周目から52周目のメインストレートで、ライコネンはフィジケラ攻略を試みる。だが、フィジケラはインを押さえてトップを死守。それを見てとったライコネンは、次の周も同じようにメインストレートで仕掛けるが、フィジケラがその手前のシケインでもストレートでもインを守りに入ることを予測した。

 ライコネンはシケインから最終コーナーへの立ち上がりを最優先にしたライン取りで加速していき、メインストレートでは1回、2回とインに振るフィジケラのスリップストリームをギリギリまで使って、アウト側に並びかける。2台で並んで最終ラップの1コーナーへと飛び込んでいき、最後の最後で前に出たのは、アウト側から理想的なラインでアプローチしていったライコネンだった。

 テールとノーズが、そしてタイヤとタイヤが触れ合うか合わないかというギリギリのバトルを繰り広げ、フェアに戦い抜いた両ドライバーともがすばらしかった。だが、マクラーレンの速さと戦略のほうが一枚上手で、ライコネンのアグレッシブな走りが最後にして最大の仕上げを施した。それが2005年日本GPのファイナルラップ――奇跡の逆転劇だった。

 ライコネンは抜きにくい鈴鹿で16台抜きという驚異的なレースを演じ、鈴鹿史上でもっとも劇的な優勝を挙げてみせた。選手権ではルノーとアロンソに敗れはしたものの、「真の最速は自分たちだ」という自負とプライド――。想像をはるかに超える速さでそれを演じて現実のものとしたライコネンに、詰めかけた大観衆はまさしく人智を超えた光景を目にし、鈴鹿は心を震わせる大興奮に包まれたのだった。