遺伝子~鹿島アントラーズ 絶対勝利の哲学~(26)森岡隆三 後編前編から読む>>「本当は負け試合だった。点を獲れそうで獲れないというゲームって、結構負けるじゃん。そうなるかなって思っていたけど、後半よく獲ったよ」 約1カ月ぶりの先発でフ…
遺伝子~鹿島アントラーズ 絶対勝利の哲学~(26)
森岡隆三 後編
前編から読む>>
「本当は負け試合だった。点を獲れそうで獲れないというゲームって、結構負けるじゃん。そうなるかなって思っていたけど、後半よく獲ったよ」
約1カ月ぶりの先発でフル出場を果たした内田篤人がそう振り返った、8月28日ACL準々決勝第1戦の対天津権健戦。鹿島アントラーズは、60分レオシルバ、72分セルジーニョのゴールで2-0と勝利した。
開始15分で3、4回ビックチャンスを迎えたが、シュートすら打てないシーンもあった。その後7度のコーナーキックを得るなど、試合の主導権を握ったが無得点で迎えたハーフタイム、選手たちは動じなかったという。
「変わらずやっていこう、とにかく失点をしちゃいけないという話を中心にしていました。前半決定機がたくさんあったので、ちょっと嫌な流れでしたけど、後半の早い段階でレオが得点を決めてくれたので。試合運びはやりやすかったかなと思います。1点入ってからのほうが集中しました。ここから絶対にやらせてはいけない。狙いがあれば2点目を獲っていこうと。全員がそう思っていて、同じベクトルを向けていられたのが良かったと思います」と語った安西幸輝は、この日はサイドバックではなく、サイドハーフとしてプレーしている。
何度もチャンスを演出したが、「ジュビロ戦のことがあるから」と楽しさ以上に緊張感を抱き続けていた。8月24日のリーグ戦対ジュビロ磐田戦で、同点弾となってしまうPKを与えるハンドのファールを犯していたからだ。「この3日間はとにかくチームに貢献したいということだけを考えていたので、それができて良かった」と小さく微笑んだ。
移籍加入後初ゴールを決めたセルジーニョも小さな安堵感を見せていた。
「第一印象が大事なので、出来れば、最初の試合で点を獲りたかったんですけど、残念ながら、うまくはいかなかった。でも、自分が真摯に練習に取り組んだ成果というのが、この大事なACLという大会で点を獲ることで出せたんじゃないかな」
得点直後の失点、終了間際の失点、大量失点など、今年の鹿島の失点は”らしくない”ものが少なくない。そういうチーム状況を踏まえたうえで、ピッチに立った内田は、「ホームアンドアウェイって絶対にホームで失点しちゃいけない」と何度もチームメイトに訴えた。
「試合中もDFラインを集めて話しました。そのうえで、あわよくば、3点目、4点目を狙っていこうと。最後はシュートを打って終わる。当り前のことをやっていかないと勝てないというのがあるし、そこらへんは散々、ホームアンドアウェイをやってきたんで。わかっているつもりではいます」
シャルケ04時代、欧州チャンピオンズリーグやヨーロッパリーグの決勝トーナメントでの試合を毎シーズンのように経験してきた内田。右サイドに立ちながら攻守に渡り、チームをコントロールする。その姿には、文字通り”ベテラン”の風格が漂う。周囲のベテラン選手に支えられ、引っ張られるようにプレーし、育まれていた8年前の内田が懐かしく思い出された。
「(小笠原)満男さんだったり、マルキ(マルキーニョス)だったりの後ろ姿でね、教わってきた。今の選手は若いけれど、ちゃんと、やっていこうって話せば、ピッチで表現できる技術があるから。いいチームだと思う。でも、そういうやるべきことをACLだけじゃなくて、Jリーグとか、他の試合でも詰めていかないと、本当の強さは出てこない。それが出ないと鹿島じゃないから」
アントラーズの一員として、あるべき姿を伝えるべき立場になった内田の言葉が、重く響いた。
天津権健とのセカンドレグは9月18日。そこまでの間には、Jリーグだけでなく、ルヴァンカップも控えている。ACL後には天皇杯もあり、どの試合も落とせるものではない。当たり前のことを当たり前にやれるかどうか。正念場は続く。
Criacao Shinjuku(東京1部)のアドバイザーに就任が決まった森岡隆三
1994年に高卒ルーキーとして、鹿島アントラーズ入りを果たした森岡隆三さんは、翌年夏に清水エスパルスへ半年間のレンタル移籍を果たしている(のちに完全移籍)。移籍直後から、エスパルスのレギュラーとして活躍。ファーストステージ12位だったチームはセカンドステージ4位と順位を上げる。移籍を決意するに当たり、森岡さんは「出場機会を求めて」「試合経験を積むために」というだけではない、覚悟を抱いていた。
その後、長年ライバルという関係になった鹿島だが、森岡さんのキャリアにとって、鹿島での日々はどんな影響をもたらしているのだろうか。
――プロ1年目は1試合に出場しただけで、苦しい時間が続いたわけですが、2年目の1995年夏、清水エスパルスへのレンタル移籍を決断しました。
「2年目を迎えるにあたって、楽しもうと思ったんです。身体を鍛えること以上にボールを使い、自分の良さを出していきたいと。両親とは『3年間』という約束をしていたし、もう残り2年しかないわけですから。そういう気持ちになれたせいか、だんだん自分のプレーにも自信が持てるようになり、成長を感じることができたんです。まだ試合には出られていないけれど、可能性はあるんだと。そんなときに清水から『トップのレギュラーとして起用したいから』という話を頂きました。最初は鹿島で勝負したいという気持ちが強かったんです。でも、まだ19歳の僕に清水は大きな期待をかけてくれている。その年のファーストステージで、清水は失点がすごく多かったんですよ。そのディフェンスの補強に僕を選んでくれたんだと思ったときに、挑戦してみたいという気持ちに180度変わったんです。エスパルスは新しいクラブだけれど、サッカー処の清水にあり、それこそ高校サッカーのヒーローがたくさん在籍していたし、いい選手も多い。そのなかでチームのために力になれるという自信も自分には芽生えていたので、移籍を決意しました」
――最初はレンタル移籍でした。半年後に鹿島へ戻るということはイメージしていましたか?
「『経験を積んで、戻ってきて』と言ってくださる方もいたんですが、僕自身はそういう気持ちは正直なかったんです。というのも、僕がエスパルスへ加入するというのは、エスパルスの選手の仕事を奪いに行くことだと考えていたからです。『レギュラーとしての補強』と言われていたけれど、もちろんポジションが約束されていたわけではない。文字通りポジションを奪う、誰かの仕事を奪う覚悟がないとダメだと思っていました。それこそ、半年間、誰とも仲良くなれなくてもいいというくらいの気持ちです。だから、『半年経験を積む』という感覚にはなれなかった」
――退路を断っての移籍だったんですね。
「だから、鹿島の寮の荷物もすべて、清水へ運びました。でも、清水の寮の部屋が鹿島の3分の1くらいの広さしかなくて(笑)。結局、寮生活をせずに一人暮らしを始めたので、寮では段ボールをすべて開けることもなかったんですけど」
――鹿島との対戦のときはどんな気持ちでしたか?
「対等な立場での対戦というのは、やっぱり不思議な感じがありました」
――今までは紅白戦といえども、追いかける立場でしたからね。その後はライバルとして戦うクラブとなったわけですが、森岡さんにとって、鹿島アントラーズでの1年半はどのような影響を与えてくれましたか?
「在籍はわずか1年半で1試合にしか出場していないので、僕が鹿島にいたことを知らない方も多いと思います。でも、僕の選手としてのキャリアを振り返ったとき、鹿島の影響というのは非常に大きいと思います。ピッチ上はもちろんのこと、ピッチ外でもたくさんの思い出があります。先輩や同僚から受けた刺激は、思いのほか、僕のなかに染みていますね。やっぱり初めてのプロ生活はエキサイティングでしたよ。しかも前年度に優勝している選手といっしょに過ごすわけですから。たとえば、ロッカールームやサウナでの会話とかも思い出しますし、大人への入り口になったんだと思います」
――チームメイトもレベルの高い選手が多かった。
「当時サイドバックだった僕にとって、ジョルジニーニョは世界最高のサイドバックだと思っていました。高3のとき、ドイツ遠征でバイエルン・ミュンヘンの練習場へ行ったときに見たジョルジーニョ(1995年1月移籍加入)がチームメイトになったんですから、それは興奮しました。いっしょに過ごしたのは短い時間でしたけど。練習前に体幹を締めるトレーニングを毎日黙々とやっている姿を目にして、一流の選手のすごさを知りました。鹿島にはいろんなタイプのプロフェッショナルが揃っていたと思います。ハセさん(長谷川祥之)は、ヘディングも足元も巧いゴールゲッターでしたけど、ピッチに降り立つと柔らかい雰囲気を漂わせながらも男気の強い人でした。(大野)俊三さんは、お酒の大好きな優しい人なんだけど、スライディングをかわされたときに、頭でボールを奪い返しに行ったことがあるんです。絶対に抜かせないぞという気迫を感じました」
――プロとはなにかというのを学んだわけですね。
「プロとは? という問いの答えはいっぱいあると思うんです。鹿島には選手だけではなくて、それを突き詰めている人がたくさんいました。フロントやスタッフもそうですが、たとえば雄飛寮の寮監だった高野(勝利)さんをはじめ、クラブに関わっている人、ひとりひとりが自分の仕事に厳しさと責任を持っていると感じました。そういう個が強いからひとつになったときの結束力も強い。仲はいいけれど、馴れ合うこともない仕事人の集団という印象があります」
――選手だけではないと。
「はい。だから選手も同じですよね。俊三さん、石井(正忠)さん、奥野(僚右)さん、賀谷(英司)さん……徹底的に自分の仕事をまっとうする、プロとはこういうことだなとたくさんの人たちが教えてくれました」
――6月まで指揮を執っていたガイナーレ鳥取では、「選手同士で要求をし合う空気」を求めているとお話しされていましたが、それは鹿島での経験が影響しているのでしょうか?
「そうですね。文句を言い合うのではなく、『こうしてほしい』という要求です。周囲にそれを求めるためには、自分がしっかりとやらなくちゃいけないという責任が生まれます。鹿島に限らず、強いチームというのは、そういう空気があるものです」
――現在は監督業から離れていますが、将来鹿島で指揮を執るというような気持ちは?
「イヤ、僕は鹿島と戦いたいですね。やっぱり鹿島といえば、『強い』というのが僕のなかでは大きいから」
――今、「鹿島は強い」というお話しでしたが、その強さの秘密というのは、先ほどのプロ意識以外にどんなところにあると思いますか?
「チームにはピッチ上でのルール、カルチャーというのがあります。この局面ではボールを外へ出すのか? 繋ぐのか?とか。それらをもたらすのは監督である場合が多いので、監督が代わればルールも変わってしまうことがあります。しかし、ベテランと言われる選手がそれを作り、中堅若手とつないでいくこともできる。それでも選手の入れ替わりや年齢構成などによって、そのカルチャーを継承できなくなる時期が生まれるものですが、鹿島は絶妙なスカウティングで、そういう魂を繋ぎ続けているんだと思います。タフなセンターバック、ボールを持てる中盤、強いフォワードがいて、サイドバックが上がってくる。そこに鹿島のサッカーの面白さと堅さがあります。そういう基盤に応じた選手を獲得しているし、育てているのが強さなんだと思います」
――ワールドカップのロシア大会では、大迫勇也、柴崎岳、昌子源とその鹿島でプロデビューした選手が日本代表のセンターラインを構築しましたね。
「日本代表のほとんどの選手が海外でプレーするという時代は、今後も続いていくのかもしれません。何人Jリーグの選手がいるのかという感じになったとき、鹿島の選手がそこに入ってくるように、鹿島にはJリーグを引っ張って行ってほしいと思います」