全米オープンの会場は、大坂なおみにとっての、キャリアの”スタート地点”である。 3歳のころ、大阪市からニューヨークに移り住んだ大坂家の次女は、1歳半年長の姉とともに父の手ほどきのもと、ラケットを手にボールを追い…

 全米オープンの会場は、大坂なおみにとっての、キャリアの”スタート地点”である。

 3歳のころ、大阪市からニューヨークに移り住んだ大坂家の次女は、1歳半年長の姉とともに父の手ほどきのもと、ラケットを手にボールを追い始めた。練習の場となったのは、ビリー・ジーン・キングナショナルテニスセンター。往年の名選手の名を冠する世界最大のテニス場が、彼女の始まりの地であった。


シーズン最後の四大大会

「全米オープン」に挑む大坂なおみ

 その原点に宿るもっとも古いテニスの記憶は、一緒に練習していた子の顔に、ボールがしたたかに当たったこと。

「すごく怖くなって、私は自分の顔の前にラケットをかざしていたの」

 はにかんだ笑みとともに振り返るその日から、15年以上の歳月が流れた今、彼女は世界の19位として、ニューヨークに帰ってきた。会場のシンボルである地球儀の巨大オブジェは、その周囲を走り回った遠き日を、大坂に想起させる。大手地元紙『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』電子版は、この街から巣立った20歳を、「優勝しても驚きではない」選手として特集した。

 肌に馴染む街や会場の空気も含め、大坂にとってもっとも相性のいい四大大会が、この全米オープンなのは間違いない。だが、今大会前に出場した北米ハードコート3大会で、大坂は1勝3敗と苦しい戦いを強いられた。

 とくに最初の2大会では、相手にではなく、自分に敗れるような試合が続く。後に大坂はそれら苦闘の訳を、SNSを介し自らの言葉で発信した。

「この数週間はいろいろあり、ボールを打つときもよく感触が掴めず、練習時にはイライラしたり気分が落ち込んだりしていました」

 そうつづる彼女は、7月の北米ハードコートシーズンに入って以来「大きなプレッシャーを感じていた」こと、そしてその重圧の源泉は3月のインディアンウェルズ大会(BNPパリバオープン)優勝にあることをも明かしている。

「周囲からの大きな期待を感じたし、もう自分は”アンダードッグ(下の立場)”ではない、と思うようにもなっていた」

 ランキングの上昇に伴う外界の変化と、それに呼応する心の動き――。それらは彼女にとって、「まったくもって新しい経験」だったという。

 それでも、手にした戦果に比例して増す重圧は、上に行く者が誰しも体験する通過儀礼だともいえるだろう。自身を客観的に見つめた大坂は、直近のシンシナティ大会では、「負けはしたが、正しい方向に進んでいると感じられた。ようやく、テニスが楽しいと感じられた」と記した。それは、憧れの存在であるセリーナ・ウィリアムズ(アメリカ)を破った、3月末のマイアミ・オープン以来の感覚だったという。

 大坂がコートに立つとき、彼女が戦う相手は常に自分自身であると、コーチのサーシャ・バジンを含めた多くの識者が断言する。闘志を前面に押し出しプレーしているときの彼女は、相手が世界1位であろうと関係ない……と。

 5ヵ月前のインディアンウェルズで、1位のシモナ・ハレプ(ルーマニア)や5位のカロリナ・プリスコバ(チェコ)を圧倒した大坂は、そのことを世界に証明した。ただ、その後の彼女は周囲が抱く”大物食い”のイメージとは裏腹に、自分より上位の選手に勝っていない。それはおそらくは、本人が独白した「もう自分はアンダードッグではない」との意識からくるものだろう。強者相手に無邪気に勝利を奪いにいくには、彼女は多くを背負いすぎた。

 128選手が参戦する今大会においても、第20シードの大坂が追われる側に属することは間違いない。ただ彼女は、世界のテニスシーンに躍り出た16歳のときから一貫して、目標は「世界1位と、可能なかぎり多くのグランドスラムで優勝すること」と明言してきた。その目指す地平の彼方から見れば、彼女はまだまだ挑戦者だ。

 15年以上前――。ビリー・ジーン・キングナショナルテニスセンターでボールを追っていたときの大坂は、常にチャレンジャーだった。最大のライバルは姉であり、敗れるたびに「明日こそは勝ってやる!」と宣言していたという。

 無垢に追い続けた夢に近づき、ゆえに覚える重圧に歩幅を狭められている彼女が今求めるのは、以前のような追う者としての飢餓感だ。その初心を取り戻す場所として、キャリアの原点であるニューヨーク以上にふさわしい町はない。