「まるで、ローラーコースターのような道のりだった」 センターコートの表彰台でマイクに向かい、彼が言うと、満員の客席から共感の熱がこもる笑い声が一斉にあふれた。スタジアムの向こうには、地元の人々が愛するアミューズメントパーク『キングスアイ…

「まるで、ローラーコースターのような道のりだった」

 センターコートの表彰台でマイクに向かい、彼が言うと、満員の客席から共感の熱がこもる笑い声が一斉にあふれた。スタジアムの向こうには、地元の人々が愛するアミューズメントパーク『キングスアイランド』の、世界最古ともいわれる木造ローラーコースターの威容がそびえる。巨大なレールを登っては急降下するその姿に、彼は自らの歩みを重ねていた。



ノバク・ジョコビッチは珍しくコートで感情を爆発させた

 シンシナティ・マスターズの優勝――。それはグランドスラム4大会すべてを制し、「ATPマスターズ1000」では通算30のタイトルを手にしていたノバク・ジョコビッチ(セルビア)が、6度目の挑戦で初めて掴んだ同大会のタイトルである。そして、「マスターズ9大会すべてを制した史上初の選手」という輝かしい肩書を、彼に与えるものであった。

 ジョコビッチが「ローラーコースター」と形容したのは、ひとつは今大会での勝ち上がりだ。初戦は終盤に相手の反撃を許し、2回戦では体調不良のなか、苦しい戦いを強いられた。

 安定感を欠いたプレーの最大の原因は、改善途中のサーブにあるという。今年2月にひじを手術して以来、ジョコビッチは患部への負荷を減らすべく、サーブの打ち方の変革に取り組んできた。目指すフォームはいまだ手探りのなかにあり、「いい日もあれば、悪い日もある。重要な局面でスピードが上がらなかったり、ダブルフォルトを犯してしまうこともある」状態だ。

 それでもいつか、かつての感触が戻ることを信じ、彼は試行錯誤を繰り返す。今大会でも試合を重ねるごとに精度を上げ、決勝ではセカンドサーブでも78%の高いポイント獲得率を誇った。

 もうひとつ、彼が「ローラーコースター」の言葉に込めたのは、約10年に及ぶシンシナティタイトル挑戦への旅路である。初めて決勝に進出したのは2008年。そのときは両セットともタイブレークの末、同期のアンディ・マリー(イギリス)に敗れた。

 翌年も決勝に至ったものの、ふたたび苦杯をなめさせられたのが、今大会の決勝の相手でもあるロジャー・フェデラー(スイス)だ。このときも含めて、ジョコビッチは決勝で3度、フェデラーに敗れてきた。

「心理的に、とても難しい試合だった。このコートでロジャーに負け続けてきた過去は、どうしても思い出してしまう」

 今回の決勝でも、ローラーコースターが見下ろすコートでフェデラーと対峙したとき、敗戦の記憶に襲われたことを彼は認めた。だが同時に、かつてこの場で「窮状から逆転したり、勝ち上がるごとに調子を上げてきた経験」に、勇気づけられていたともいう。

「だから今回も、きっと決勝にいけば、いいプレーができるはずだ」

 自身にそう言い聞かせ、ついに栄冠を手にしたジョコビッチは、「決勝では今大会最高の試合ができた」と顔を輝かせた。

 一方の敗れたフェデラーは、決勝に辿り着いた時点で疲労困憊だっただろう。大会を通じて見舞われた悪天候のため、1日2試合を戦ったり、試合が深夜に及んだこともあった。

 だが本人は、「もしかしたら、1日2試合が影響したかもしれない。でも、しなかったかもしれない。誰にもわからないし、誰も気にする必要もない! もう終わったことだからね」と笑みを見せる。

「この会見は、僕のリターンが悪かったことを語るべき場所ではない。ノバクが成し遂げたことについて語るべきだと思うよ」

 そう定義したフェデラーは、ジョコビッチの偉業に関する自らの見解を次のように述べた。

「マスターズ制覇は、少し前の世代なら目指すことすら考えなかった偉業だ。以前はそれぞれのコートのエキスパートがいたので、不可能だと思われていた。だが、ある時からコートが全体的に遅くなり、すると多くの選手がベースラインでプレーするようになった。それが異なるサーフェス(コートの種類)すべてを制する、唯一の手段だから」

 この20年ほどのテニス界の変遷を振り返ったうえで、フェデラーはこう続けた。

「きっとこれから先は、もっと多くの選手がこのような記録に挑戦していくのだろう。ノバクは、その先駆けとなる存在だ」

“ノバク”とはセルビア語で、「新たに訪れし者」の意味を持つという。その彼の台頭により、テニス界の主流たるスタイルは、ベースラインでの守備を基礎とし攻撃も試みる、全コート対応の要塞型へと移り変わった。

 長くフェデラーらの後塵を拝しながらも、肉体改造などを成し遂げ、一時代を築くことに成功したジョコビッチ。その後は、ケガやモチベーション低下を乗り越える「ローラーコースター」の歩みを経て、今、彼はふたたび新時代の扉をこじ開けた。