【短期連載】鈴鹿F1日本グランプリ30回記念企画 1996年の鈴鹿F1日本GPは、ウイリアムズ・ルノーを駆るチームメイトふたりが主役となった。ひとりはデイモン・ヒル、36歳。そしてもうひとりはジャック・ビルヌーブ、25歳。年齢の開いた「…

【短期連載】鈴鹿F1日本グランプリ30回記念企画

 1996年の鈴鹿F1日本GPは、ウイリアムズ・ルノーを駆るチームメイトふたりが主役となった。ひとりはデイモン・ヒル、36歳。そしてもうひとりはジャック・ビルヌーブ、25歳。年齢の開いた「二世ドライバー」同士の最終決戦に、鈴鹿サーキットはレース前から熱気にあふれ返っていた。

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F1史上初の親子二代にわたる世界王者を成し遂げたデイモン・ヒル

F1日本GP「伝説の瞬間」(3)
デイモン・ヒル、最終戦で悲願のチャンピオン決定(1996年)

 バブル経済が弾け、アイルトン・セナがこの世を去ってF1ブームにも翳(かげ)りが見えて、1996年は日本のファンにとっては盛り上がりにくいシーズンだったかもしれない。しかし、コース上では濃密なドラマが繰り広げられていた。

 2度の世界王者であり、「初代モナコマイスター」として鳴らしたグラハム・ヒルの息子デイモン・ヒルと、無冠のまま事故死を遂げながらも、情熱的なドライビングでエンツォ・フェラーリに愛され続けたジル・ビルヌーブの息子ジャック・ビルヌーブ。そんなふたりの「二世ドライバー」による、豪華で見応えのあるチャンピオン争いが繰り広げられたシーズンだった。

 セナの後を継いでウイリアムズのエースとなりながらも、2年連続でミハエル・シューマッハ(ベネトン)の前に敗れたヒルにとって、1996年は最後のチャンスだった。夏前にはこの年かぎりでチームから放出されるとの噂が流れ、モンツァでそれは真実となった。

 その一方でビルヌーブは、この年デビューの新人ながら初戦でポールポジションを獲得し、ファステストラップも記録。残り4周でマシントラブルが起きるところまでレースをリードするという速さを見せ、人々の度肝を抜いた。彼はインディ王者の実績を引っさげてきただけでなく、実戦前に1年間にわたってF1でも入念なテスト走行を繰り返してきた。そして何より、あのジルの息子であり、アグレッシブで人を惹きつける走りの才能を持っていた。

 名門ウイリアムズのステアリングを握りながらも2年連続でシューマッハに完敗を喫したヒルと、驚異の新人ビルヌーブ。シューマッハが低迷するフェラーリに移籍し、チーム再建に献身する道を選んだことで、1996年はそんな対照的なふたりの二世ドライバー対決となったのだ。

 その年、ヒルに対する世間の風当たりは強く、地元イギリスのメディアさえも批判を展開。チームからも放出を決められ、厳しいプレッシャーと戦いながらシーズンを戦わなければならなかった。

 それでも、ヒルは転がり込んできた開幕戦の勝利を皮切りに開幕3連勝を成し遂げ、ビルヌーブは4戦目にしてF1初優勝を挙げるが、選手権はヒルがリードしていった。両肩に圧しかかる重圧に晒(さら)されながらも突き進むことができるほど、ヒルは強くなっていた。ビルヌーブはただの新人ではなく、彼が遅かったのではない。ヒルが速く、強かったのだ。

 この年からオーストラリアGPがアデレードからメルボルンへと移り、3月に開幕戦として行なわれた。その結果、日本GPはシーズン終盤唯一のフライアウェイ戦となり、最終戦として開催されることになった。

 ビルヌーブは直前のエストリル(第15戦・ポルトガルGP)で華麗な走りを見せて勝利をもぎ取り、9ポイント差でチャンピオン争いをなんとか最終戦の鈴鹿に持ち込ませた。勝利数は6勝対5勝で、ヒル優勢。ビルヌーブが逆転で王座を獲得するためには、優勝して、ヒルが無得点に終わらなければならない。逆にヒルは1ポイントでも獲れば、ビルヌーブの順位に関係なく戴冠が決まる圧倒的有利な立場だ。

 しかし、当時のポイントシステムは優勝10ポイントから6位1ポイントまで。背後にはフェラーリ、ベネトン、マクラーレンなどが控えている状況を考えれば、ひとつのミスでポイント圏外まで落ちることも十分にあり得た。さらに予選ではビルヌーブにポールポジションを奪われ、ヒルは2番グリッドから決勝に臨まなければならなかった。

 突然この世を去ったセナの後を継いでチャンピオン争いをすることになった1994年や、圧倒的な速さを誇るベネトン・ルノーの前に為す術(すべ)がなかった1995年のヒルならば、そんなプレッシャーのかかる状況で本来の速さを発揮することができず、自滅していたかもしれない。

 だが、ヒルが重圧に押し潰されることはもうなかった。逆に重圧に負けたのはビルヌーブのほうで、スタートで出遅れて大きく6位まで後退。そこから猛烈なプッシュで4位まで追い上げたものの、37周目の1コーナーで右リアタイヤが脱落してコースオフ。ビルヌーブのルーキー王座の望みはグラベルのなかで潰(つい)え、チェッカードフラッグを待たずしてヒルの初戴冠が決まった。

 36歳という遅咲きの王者は、15歳のときに父グラハムを飛行機事故で亡くし、その事故機に同乗していたチーム関係者の遺族への莫大な補償金を支払わなければならなかったため、家計は窮乏した。バイク便のアルバイトをしながら2輪でレース活動を続けたが、4輪デビューは25歳、そして31歳でようやくF1デビューを果たした苦労人だった。

 チェッカードフラッグを受け、パルクフェルメに戻ってマシンを停めると、そこには長きにわたって苦楽をともにしてきたジョージー夫人の姿があり、ヒルは真っ先に彼女のもとへ行き、抱き合った。

 F1史上初の親子二代にわたる世界チャンピオン誕生の瞬間は、こうしてやってきた。しかし、先述のようにデイモンがレースをする姿を父グラハムが見たことは一度もなく、デイモンは他の二世たちのように恵まれた環境で育ってきたわけではない。むしろ、偉大な父と重ね合わせて比べられるという、苦しみばかりを味わってきたと言っても過言ではなかった。

 しかし自身が王座に就き、ようやくその苦しみから解放された。彼は「偉大な父グラハムの息子」ではなく、デイモン・ヒルという「ひとりの偉大なドライバー」へと成長したのだ。

 ウイリアムズを去った翌週、ヒルは早くも翌年加入するアロウズのためにブリヂストンのタイヤテストに参加。翌1997年はF1参戦初年度で弱小チームばかりのブリヂストン勢にあって、第11戦・ハンガリーGPでヤマハエンジンのアロウズを優勝目前に導くなど、王者としての矜持を見せた。そしてジョーダンでもチームの躍進に貢献し、1998年の第13戦・ベルギーGPでチームに初優勝をもたらした。ヒルは誰もが名手と認める存在になっていた。

 ウイリアムズがヒルの放出を決めたとき、空力の鬼才エイドリアン・ニューウェイはこれに猛反発してチームを去り、何人ものスタッフが後を追った。すでに完成間近だったマシンで戦った1997年はビルヌーブが王座を獲得したが、以来ウイリアムズはチーム力を低下させ、一度も王座に就くことなく現在に至っている。

 史上初の親子二代王者が誕生した1996年日本GPは、ヒルが偉大な父グラハムの息子からひとりの名手へと成長すると同時に、名門ウイリアムズが低迷への一歩を踏み出した瞬間でもあった。