【短期連載】鈴鹿F1日本グランプリ30回記念企画 日本のモータースポーツの歴史を語るうえで、1990年の鈴鹿F1日本GPは決して外すことができないだろう。それほど日本人にとって、このレースはエポックメイキングなものだった。その鈴鹿で主役…

【短期連載】鈴鹿F1日本グランプリ30回記念企画

 日本のモータースポーツの歴史を語るうえで、1990年の鈴鹿F1日本GPは決して外すことができないだろう。それほど日本人にとって、このレースはエポックメイキングなものだった。その鈴鹿で主役を張ったのは、当時30歳の鈴木亜久里。この日の出来事により、日本のF1ブームがさらに過熱したのは間違いない。

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左から、ロベルト・モレノ、ネルソン・ピケ、鈴木亜久里

F1日本GP「伝説の瞬間」(2)
鈴木亜久里3位表彰台、モレノも涙(1990年)

 日本人がF1の表彰台に立った。それも地元・鈴鹿日本GPで――。

 それは、日本のファンにとってエポックメイキングな瞬間であり、鈴木亜久里が日本の歴史に刻んだ新たな1ページは、あまりにも大きな意味を持つものだった。

 表彰台に立った亜久里も見守ったファンも、途方もなく遠いと思われていた夢が急に叶ってしまったような不思議な気分だった。なにしろ、亜久里はデビューイヤーの前年度はザクスピード・ヤマハで全戦予備予選落ちという辛酸をなめていたのだ(当時は出走台数が多かったため、予選に出走するための予備予選が実施された)。この年はラルースに移籍し、ローラ製シャシーとランボルギーニV12エンジンの威力もあって第8戦・イギリスGPと第14戦・スペインGPで6位入賞を果たしていたとはいえ、日本GPの予選は10位だった。

 しかし、スタート直後の1コーナーでアイルトン・セナ(マクラーレン)とアラン・プロスト(フェラーリ)が姿を消すと、2周目には首位に浮上していたゲルハルト・ベルガー(マクラーレン)がスピンオフ。27周目にはピットアウトしようとしたナイジェル・マンセル(フェラーリ)がドライブシャフトを壊してステアリングを叩きつけ、2強の4台がすべてリタイアしてしまった。

 すると、そのとき亜久里の前にはウイリアムズとベネトンしかいなかった。当時の亜久里とラルース・ランボルギーニがいたのは、そういうポジションだったのだ。

 亜久里は走り慣れた鈴鹿でスタート直後から豪快な走りを見せ、7周目のメインストレートでは芝生にタイヤを落としながらも2コーナーでインに飛び込んでロータスのデレック・ワーウィックをオーバーテイクし、6位に浮上。マンセルのリタイアで5位に上がると、2台のウイリアムズをファステストラップを記録しながら追いかけ、彼らのピットストップの間に逆転するなど、実力で3位までポジションを上げていった。

 最後は14万の大観衆からの声援と、打ち振られる日の丸に囲まれながら、ソフトタイヤを履いて追いすがるウイリアムズ勢を寄せつけることなく3位でフィニッシュ。さすがの亜久里も、ヘルメットのなかで涙が止まらなかったという。

 端整な顔立ちとサバサバした性格でスターダムにのし上がった亜久里だが、そのレースキャリアは順風満帆だったわけではない。むしろF3でなかなか王座に手が届かず、2度のランキング2位を経験しながらも8年間を過ごし、活動資金が底を突いて何度も引退を考えたことがあるなど、苦難に満ちたものだった。

 しかし、そのたびに支援者に恵まれ、ニッサンの開発ドライバーからグループC、そして全日本F3000(現在のスーパーフォーミュラに相当)へとステップアップを果たし、F3デビューから11年目にしてついにF1への道が開けた。

 だが、そのF1でも初年度は戦闘力の乏しいマシンで予備予選すら突破ならず、屈辱を味わった。そんな波瀾万丈のキャリアの末に辿り着いた、F1の表彰台だったのだ。

 亜久里がどんなに苦境に立たされようとも華々しい舞台に立ち続けてこられたのは、彼への支援を惜しまない人々がいたからだ。もっと言えば、彼には人を惹きつけてやまない人間としての圧倒的な魅力があったからだ。

 これでダメなら引退する――。

 そう言って臨んだ1990年シーズンの、それも地元・日本GPで、亜久里はキャリア最高の快走とツキのよさをフルに発揮し、表彰台という晴れの舞台へと駆け上がった。それはまさしく、多くの人々が亜久里に魅了され、熱狂し、支援を惜しまなかった理由そのものだろう。

 そして1990年の鈴鹿の表彰台をより一層ドラマティックなものにしたのが、ベネトンのワンツーフィニッシュと、ブラジル出身の「苦労人」ロベルト・モレノの涙だった。

 1982年にはF3マカオGPを制し、1988年にはフェラーリ639の開発ドライバーを務めながら国際F3000を制すなど、モレノは実力がありながらも資金力に恵まれず、若いころから苦労を続けてきた。1989年にコローニからフル参戦のチャンスを得るが、予選通過は4度のみで、翌年はユーロブルンで予備予選通過にも苦労させられた。弱小チームで悲哀を味わう亜久里と同じような境遇にあったのだ。

 1979年にイギリスに渡ったばかりでお金のなかったころには、同じリオデジャネイロ出身のネルソン・ピケと行動をともにし、女性の部屋を転々とするピケについて回ってソファで眠ったこともあった。

 そんなモレノをふたたび救ったのが、ピケだった。日本GP直前のヘリコプター事故で重傷を負ったアレッサンドロ・ナニーニの代役としてモレノを推挙し、かつての師弟コンビを復活させた。ベネトンに加入していた技術責任者ジョン・バーナードが、フェラーリ時代にモレノの実力と人柄を高く評価していたことも味方した。そして、その日本GPで2強4台が自滅するという幸運に恵まれ、モレノはF1初入賞にして初の表彰台に立ったのだ。

 ウイニングランを終えて、パルクフェルメに帰ってきてマシンを降りたモレノは、感極まって号泣。優勝したピケと抱き合って泣きじゃくった。慣れない表彰台では国歌の演奏が始まっても帽子を取るのを忘れて、表彰台の真ん中に立つピケに小突かれて慌てて脱帽し、薄くなった髪を舐めた指で整える仕草でおどけてみせた。そんな人懐っこさも、モレノの魅力だった。

 苦労してここまで這い上がってきた、亜久里とモレノ――。ある意味では両極端だが、ある意味ではよく似ているふたりがこの大荒れの1990年日本GPでともに表彰台に上ったのは、ただの偶然ではなかったのかもしれない。そんなふたりだからこそ、今でも日本では高い人気を誇り、彼ら自身も今でも互いに親しく交友を続けている。

 亜久里にとっても、日本のF1ファンにとっても、そしてモレノにとっても、1990年の日本GPは大きな歴史の1ページとなった。これほどまでに人間味に溢れ、心温まる表彰台は、後にも先にもないはずだ。