7月28日に行なわれたジュビロ磐田戦後、すでに夜は更けていた。試合が開催された鳥栖には深夜まで営業している店がない。そのため、久留米の焼肉屋に出かけることになった。「今と昔が変わっているというのは意識しています」 サガン鳥栖のFW豊田…
7月28日に行なわれたジュビロ磐田戦後、すでに夜は更けていた。試合が開催された鳥栖には深夜まで営業している店がない。そのため、久留米の焼肉屋に出かけることになった。
「今と昔が変わっているというのは意識しています」
サガン鳥栖のFW豊田陽平(33歳)は、左手でトングを器用に使いながらその胸中を明かしている。豊田は今年1月に移籍した韓国Kリーグの蔚山現代から半年で帰還し、この夜が途中出場での復帰戦になった。網の上ではハラミがジュージューと音を立てていた。
「自分が帰ってきたのは、一緒にJ2からJ1に上がったチームがJ2に落ちるのを見るのは許せなかったからです。落ちるようなチームじゃない。力になれることがあるんじゃないかって。
ただ、今の自分が”鳥栖らしさを”と主張しても難しい。それはピッチで姿勢を示すべきことで、試合に出ていないなか、影響力が失われているというのは自覚しています。でも、チームとして間違っている方向に行っているのを感じたら、それは言っていきたい。今は託された時間の中、なんとかチームのために仕事をするだけ。個人としてはあと6得点で通算100得点となり、通過点にしたいですけど、今はチームがすべてですね」
18チーム中17位と降格圏に沈む鳥栖に戻ってきた英雄は、語気を強くした。
サガン鳥栖に復帰した豊田陽平(右)とフェルナンド・トーレス
昨年の大晦日、小松空港のカフェだった。豊田は、ほとんど電撃的に韓国への移籍を決断している。かつてヴィッセル神戸にも在籍していたキム・ドフン監督から電話が入り、日本語で「ぜひ、来てほしい」という熱烈なオファーがあったことも、心を決めた理由のひとつだろう。しかし、最大の理由は「一度は海外で」という夢を捨て切れなかったからだ。鳥栖のことは気がかりだったが、千載一遇の機会を逃したくなかった。
しかし、韓国での生活も、プレーも、うんざりするほど水が合わなかった。
たとえば、ウォーミングアップではメディシングボールで20回のリフティングというメニューに閉口した。深夜にお菓子やファーストフードを貪る若手選手たちも理解できなかった。槍のような選手を両サイドに走らせ、クロスに無理やり合わせる、というプレー一辺倒の戦術にも疑問を持った。ロッカールームの使い方の汚さは、日本人選手なら唖然とするほどで、がっかりした。
日々、違和感ばかりが募っていった。
一方で、豊田は過去のKリーグ所属日本人選手の誰よりも韓国語に取り組み、片言の会話はすぐできるようになっている。しかし、むしろこれが逆効果になった。へたに会話ができたことで、侮(あなど)られることになったという。
クラブハウスで通訳と張り紙を見ていたときのことだ。ほとんど前触れもなく、背後からコーチに尻を蹴られた。そのコーチは冗談のつもりだったようで、満面の笑みを浮かべていたが、何が起きたのか理解できなかった。
「これが韓国スタイルだから」
別のコーチがなだめるように言った。はたして、これで成長できるのか。その疑問が頭を離れなくなった。
「周りは『豊田は半年で帰ってきたのかよ』という見方だと思います。でも毎日、何か違和感のあることが起きるから、1日が長くて。少なくとも1年以上の感覚でした」
豊田はそう言って苦笑し、ウーロン茶を口に含んだ。追加した上ホルモンがテーブルにやってきた。
「自分の年齢を考えたら、そんなに長い時間は残されていない。さらに半年間も、韓国にとどまることはできないな、と。それで、鳥栖への復帰を相談しました。他のクラブでプレーする選択肢はなかったですね。鳥栖の降格を避けたい、という気持ちがありましたし、そこで必要とされるなら、と」
韓国での試合は、5月21日、ロシアW杯による中断期間前が最後になった。ACLで敗れ、つなげていた気持ちも切れていた。6月には、鳥栖のイタリアキャンプに帯同することが決まった。
「自分としては、結果を残せず戻ってきたことに、悶々とするところはありました。直感的に決めるべきじゃなかったなと。でも、嫁が『若いときから一度は海外でやりたいって言って、どんなものかわかっただけでもよかったじゃない。行かずにキャリアが終わっていたら、後悔していたかもよ』と言ってくれて、それもそうだなと。ACLを経験できましたし、思いやりや気遣いという、日本人のよさを再認識できたのもよかったです」
豊田はそう言って腕を組んだ。消化不良の想いは残っている。しかし、得たものがないわけではない。ひとりのプロ選手として鷹揚(おうよう)に構え、試合に向き合えるようになったという。
「韓国の選手は、食生活はめちゃくちゃだし、練習もかなりゆるい感じ。鳥栖のほうが断然きついですよ。ただ、韓国の選手は本番に強いんです。その点、自分は少し思いつめすぎていた。それでがんじがらめになっていたんじゃないか、と思うようになりました。手を抜くのとは違うけど、うまく割り切って、リラックスしてサッカーに取り組めるようになりましたね」
豊田はいつも敗北や失敗からも学び、這い上がってきた。北京五輪ではチーム唯一の得点を挙げたものの、その後はJ2の鳥栖に流れ、その鳥栖をJ1に昇格させ、クラブ史上初の日本代表選手にも選ばれた。ブラジルW杯では本大会のメンバーから外れるも、2015年のアジアカップには出場した。
「もう、時代は違います。新しく変わるほうに身を委ねるのが楽なんですよ。ただ、自分はいいときも悪いときも、このチームでやってきたので」
豊田はそう言うと、テーブルの上を片付け、布巾できれいに拭いた。
「トーレスには積極的に話しかけています。黙々と練習する選手で、なんか自分と共通する性格なんじゃないかなと。もっと英語がうまくなりたいですね!」
そう語る鳥栖の英雄は、今をたくましく生きている。