WEEKLY TOUR REPORT米ツアー・トピックス 今季のメジャー第3戦、第147回全英オープン(7月19日~22日)が間近に迫ってきた。 今年の開催コースは、カーヌスティ・ゴルフリンクス(スコットランド)。全長7402ヤード、パ…

WEEKLY TOUR REPORT
米ツアー・トピックス

 今季のメジャー第3戦、第147回全英オープン(7月19日~22日)が間近に迫ってきた。

 今年の開催コースは、カーヌスティ・ゴルフリンクス(スコットランド)。全長7402ヤード、パー71。距離がたっぷりあるうえ、フェアウェーは狭く、厄介なポットバンカーが随所に待ち受ける。しかも、北海からの強風が吹き荒れると、その難度が一段と上昇。歴戦のプロたちが悲鳴を上げるほどの、過酷なコースに変貌する。

 同コースは1999年、24年ぶりに開催舞台となると、以降は全英オープンの”ロタ(ローテーションによる開催コース、現在は全10コース)”入り。今年で8度目の開催となる。

 さて、これまで数々の名勝負が繰り広げられてきた全英オープン。その”偉大な戦い”においては、「勝者」ばかりではなく、ときに「敗者」のほうがクローズアップされ、その名を歴史に残すことがある。

 カーヌスティを舞台にして行なわれた1999年大会は、まさにその象徴といえる。当時の激闘は「カーヌスティの悲劇」と呼ばれ、そこで敗れたジャン・バン・デ・ベルデ(フランス)の名は世界中に知れわたり、今なお語り継がれている。

 メジャー大会のなかでも歴史的な逆転劇であり、あらゆるスポーツにおいても「最も悲惨な敗北」と言われたその”悲劇”の1シーンは、ゴルフファンなら、一度は目にしたことがあるのではないだろうか。カーヌスティが舞台となる今年、その”悲劇”の瞬間を再び振り返ってみたい。

 トム・ワトソン(アメリカ)がプレーオフを制して、メジャー初優勝を飾った1975年大会以来、24年ぶりにカーヌスティで開催された1999年大会。その難関コースでは、多くのトッププロが苦戦を強いられた。

 そんななか、安定したプレーで大会をリードしていたのが、当時33歳のバン・デ・ベルデ。3日目を終えたときには、後続に5打差をつけてトップに立っていた。

 最終日最終組でスタートし、さすがにその日は紆余曲折あったものの、最後の18番ホールを迎えたときには、2位に3打差をつけて首位をキープ。誰もがバン・デ・ベルデの優勝を信じて疑わなかった。

 最終18番は、487ヤードのパー4。フェアウェーの落下時点にはS字のバリーバーン(小川)が横切って、グリーン手前にもそれが続いており、選手にとっては非常にプレッシャーのかかるホールだ。

 そこで、ダブルボギーでも優勝というバン・デ・ベルデは、思いのほかアグレッシブだった。多くの選手がアイアンを手にするティーショットで、ドライバーを握って果敢に攻めた。

 ボールは右に出るとバリーバーンに向かっていったが、手前のラフでなんとか止まった。このとき、バン・デ・ベルデのキャディーは「これで勝った」と確信したという。

 しかしこのあとのことについて、同キャディーは「まるでホラー映画を見ているような”悪夢”だった」と、のちに回顧している。

 問題は、セカンドショットだった。セオリーならグリーン手前、それもバリーバーンの手前のフェアウェーに刻むところだが、バン・デ・ベルデは2番アイアンでグリーンを狙った。

 これが、右のスタンドに当たり、さらにバリーバーンの縁石に大きく跳ねて50ヤードほど戻され、膝丈もある深いラフへ。続いて、そのラフからの第3打が大きくショートしてバリーバーンへと吸い込まれてしまった。

 小雨が降りしきるなか、バン・デ・ベルデは靴を脱いで裸足になると、ズボンをまくし上げて水の中へと足を踏み入れた。そして、「バリーバーンの中から第4打を打とうと考えた」というバン・デ・ベルデは、メディアやファンが固唾を飲んで見守るなかで、水の中に沈むボールをじっと見つめていた。その姿は”悪夢の象徴”として、今でも各メディアでしばしば登場する。

 結局、バリーバーンから打つのをあきらめたバン・デ・ベルデは再び後方のラフにドロップ。その第5打はグリーンサイドのバンカーに入ったが、2mのパットを沈めてトータル「7」のトリプルボギーとした。かろうじてプレーオフ進出となったが、最後のパットを決めたときに見せたガッツポーズは、なんとも痛々しかった。

 通算6オーバーで並び、バン・デ・ベルデとともにプレーを戦ったのは、ポール・ローリー(スコットランド)、ジャスティン・レナード(アメリカ)。3人で4ホールのプレーオフを行なった結果、チャンピオンとなって『クラレットジャグ(優勝カップ)』を手にしたのは、ローリーだった。

 ただ、多くの人々の記憶に刻まれたのは、優勝したローリーよりも、敗れたバン・デ・ベルデのほうだったことは間違いない。

 実際、あれから19年の月日が流れたが、カーヌスティで全英オープンが行なわれるたびに、この”悲劇”が話題となる。



「カーヌスティの悲劇」について振り返るバン・デ・ベルデ

 そして今年、バン・デ・ベルデはフランスの放送局のテレビレポーターとして、現地に訪れる。52歳となった今、当時のことについてこう振り返った。

「あの試合は(コースの)セッティングもタフだったし、風も強く、恐ろしいほど難しかった。そうした状況にあって(自分は)本当にいいプレーをしていたんだ。

 その後、(結果を受けて)人々はいろいろなことを言った。『安全にプレーするべきだった』とか……。だけど、僕は自分のDNAに従って攻めた。(18番の)2打目を2番アイアンで打つことに対しても、何の問題も感じなかった。とにかく、ピンに向かって打つことだけを考えていた。

 今思うことは、メジャー大会というのは72ホールを終えるまで、勝利は決まらないということ。あと、人々はもう忘れてしまっているかもしれないが、僕にはプレーオフでも勝てるチャンスがあったということ。それは、僕の誇りだ」

 悲劇が起こった夜、カーヌスティのクラブハウスでは、バン・デ・ベルデを囲んで小さな夕食会が催された。バン・デ・ベルデが語る。

「友人など、僕がみんなを招待したんだ。15人ほどでテーブルを囲んで、その週のいいプレーを祝ったんだ。何を食べたか覚えていないけど、赤ワインをたくさん飲んだよ」

 そこに『クラレットジャグ』はなかったが、バン・デ・ベルデにとってそのひとときは、生涯忘れられない時間になったという。

 カーヌスティで行なわれた全英オープンの過去3大会は、いずれもプレーオフまでもつれている。1999年大会のあと、2007年大会では、メジャー初勝利を目前にしたセルヒオ・ガルシア(スペイン)が72ホール目のパーパットを決められず、パドレイグ・ハリントン(アイルランド)とのプレーオフに敗れた。

 常に熾烈な争いが演じられてきたカーヌスティでの全英オープン。今年はどんな”ドラマ”が生まれるのか、楽しみである。