両選手が1番コートに足を踏み入れたとき、すり鉢状のスタジアムの底にあるコートは完全に影に覆われて、観客席の一角だけが、西に大きく傾いた太陽の光に照らし出されるのみだった。会心のプレーで2014年以来のベスト16入りを果たした錦織圭 夏至を…

 両選手が1番コートに足を踏み入れたとき、すり鉢状のスタジアムの底にあるコートは完全に影に覆われて、観客席の一角だけが、西に大きく傾いた太陽の光に照らし出されるのみだった。



会心のプレーで2014年以来のベスト16入りを果たした錦織圭

 夏至を2週間過ぎたばかりの、ロンドンの日はまだ長い。それでも午後9時を過ぎれば、夜の帳(とばり)があたりを覆い、試合継続は困難になる。伝統と格式のウインブルドン選手権では、大会中日(なかび)の日曜は安息日のため、試合は一切行なわれない。つまりは、もし土曜の試合が日没順延となれば、その続きは月曜日へと持ち越されることになる。

 ところがそんな日にかぎり、1番コートでは長く熱い試合が続いた。遅れる開始時間を知るたびに軽食とウォームアップを繰り返す錦織圭は、ある時点で、「もう今日中には終わらないな」と悟る。自身の陣営のみならず、対戦相手のニック・キリオス(オーストラリア)とも「終わるはずないよね」と言葉を交わしもした。

 それでも来たる試合に向け、準備は決して怠らない。30分ほど睡眠を取り、こわばる筋肉をほぐすため長めにウォームアップをした彼は、夜の7時を過ぎたころ、ラケットバックを担ぎコートへと向かった。

 試合が月曜日に持ち越されるだろうことは、7時27分の試合開始時点で、すでに覚悟できていた。だからこそ、「先にリードしておかないと」という気持ちを、強く抱いたと彼は言う。

 そのような状況理解が、錦織の集中力のネジを巻き上げた。ファーストサーブをすべて決める快調な滑り出しを見せると、続くゲームでは、キリオスの高速サーブをことごとく返してプレッシャーをかけた。鋭いリターンを相手の足もとに深く返すと、差し込まれたキリオスのショットはラインを越えていく。続くゲームもすべてのファーストサーブを入れた錦織が、ラブゲームでキープに成功。試合開始から3分で、スコアボードには3−0の数字が刻まれた。

 この時点でキリオスは、「パニックに陥った」という。

 これまで常にサーブで試合を支配してきた彼には、「ほとんどの選手は自分のサーブに触れることすらできない」という強烈な自負があった。だが、錦織は自慢のサーブを、ことごとく打ち返してくる。思いがけぬ展開に「ナーバスになり、硬くもなった」彼は、絡まった心身の糸を解きほぐすことができなかったという。迫る夕闇を見て「(日没順延を)心配する余裕などない」ほど混乱したキリオスは、焦るようにサーブを打ってはダブルフォルトを重ね、わずか16分で第1セットを失った。

 第2セットに入っても、錦織のプレーの質は落ちない。だが、対するキリオスも、サーブの精度を上げてきた。セット序盤こそブレークを奪い合うが、以降は両者ともサーブを叩き込んでは、時計の針を刻むように規則正しくポイントを重ねていく。両者6ゲームずつ取り合うのに、要した時間はわずかに20分。沈む太陽を追いかけるように、第2セットはタイブレークへと駆け込んだ。

 このタイブレークの途中で、東の方角を示すようにスタンドの一角を照らしていたオレンジ色の光の帯も、客席の緑色に吸い込まれ、すっと消える。それと同時に錦織は、キリオス攻勢の長い打ち合いをしのぎ、執念でポイントを奪い取った。

 これを機にキリオスは、ふたたび心を大きく乱す。ダブルフォルトを犯し、続いてミスでセットポイントを与えると、爆(は)ぜる怒りとともにボールを客席へ打ち込み大ブーイングを浴びた。最後は、イチかバチかで放つキリオスの超高速リターンを錦織がフォアで捕らえ、コーナーぎりぎりに沈めるスーパーショット。ボールの行方を確かめ、噛みしめるように握った拳を、錦織は雄叫びとともに激しく振り上げた。

 この時点で時計の針は8時半を指し、ついにスタジアム内からは完全に陽光が失われる。それでも残り香のような光を頼りに、試合は継続された。

 コートに入る前から「9時15分ごろまで試合はできる」と頭にあった錦織は、このとき、「もう9時ごろかな」と時計に視線を向け、まだ”想定タイムリミット”まで30分以上あることに驚きを覚えたという。同時に、日没前に試合を終えられる可能性を知った彼は、「早く終わらせなきゃという思いが強かったので、余計集中できた」とも言った。

 第5ゲームでは2度デュースに持ち込まれるも、2本のエースを連ねて振り切る。以降は自分のサーブで、わずか1ポイントしか落とさない。ハイピッチで進む緊迫の展開がそうさせるのか、中断の気配がコートに差し込むこともない。この試合を……少なくとも第3セットを見届けたいという不思議な一体感がスタジアム全体を覆うなか、試合はゲームカウント5−4の最終局面を迎えた。

 このゲームをブレークすれば、試合が終わる--。そのような期待が錦織に向けられるなか、彼は集中力のネジをさらに巻き上げる。快音を轟(とどろ)かせるキリオスのサーブを打ち返しては、多彩なショットでポイントを奪った。

 3本のマッチポイントをしのがれるも、迎えた4本目のマッチポイント……最後はフォアの強打が、キリオスの豪腕を打ち破る。電光掲示板には『9:05』の数字とともに、錦織の勝利を示す6−1、7−6、6−4のスコアが光った。

 薄暮のなか大歓声を浴びる勝者は、客席に向けてガッツポーズを振り上げる。「彼に勝ったのはうれしかったです」と顔を輝かせ、錦織はこの一戦を、キャリアにおける芝での「トップのプレー」だと評した。

 錦織がウインブルドンのベスト16に勝ち進むのは、2016年以来のこと。会心の勝利の感触を手の平に残したまま”ミドルサンデー”を迎える彼は、聖地ではまだ踏んだことのない、ベスト8以上の高みを目指す。