私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第7回出番のない「第3GK」として招集されて~川口能活(3)(1)から読む>> (2)から読む>> 2010年6月11日、南アフリカW杯が開幕した。 日本は6月14日、グループステージ初戦のカメル…

私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第7回
出番のない「第3GK」として招集されて~川口能活(3)

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 2010年6月11日、南アフリカW杯が開幕した。

 日本は6月14日、グループステージ初戦のカメルーン戦に臨んで1-0で勝利した。4-1-4-1のシステムが機能し、本田圭佑が決めた虎の子の1点を守り切って待望の勝ち点3を獲得したのである。

「(カメルーンに)勝ったことは、本当にうれしかった。大会本番では(選手の)コンディションが最も重要になるのですが、それが、プランどおりに調整できていた。南アフリカは冬で、気温が低いのもあって、みんな、結構動けていたんです。これなら『なんとかなる』と個人的には思っていました。

 それにみんなが、指揮官が(自信を持って)示す”ベクトル”を信じてプレーしていた。僕らはわからなかったけど、岡田(武史)監督にはこうなることが見えていたんだと思います」

 日本はその後、第2戦のオランダ戦を0-1と惜敗するも、第3戦のデンマーク戦を3-1と快勝。周囲の不安を払拭し、劣勢と見られていた前評判を覆(くつがえ)してグループリーグ突破を決めた。

“第3GK”“チームキャプテン”という特殊な役割を担って代表入りした川口能活は、その間のチームをどう見ていたのか。さらに、選手たちにはどんな変化が見られたのだろうか。

「(サブ組の選手で言えば)変わった選手もいれば、納得できずにいた選手もいた。それでも、チームが勝ち上がっていくにつれて、みんなが同じ方向を向いて戦っていくようになりました。

 そうなれたのは、やっぱり勝利が大きかったんですが、自分はサポートメンバーがいたことも大きかったと思っています。永井(謙佑)、香川(真司)、酒井(高徳)、山村(和也)の4人がいたんですけど、彼らはこのチームから”代表チームの振る舞い”を吸収するので、23名の選手みんなが(自分のことで)腐っていたりできないんですよ」

 サポートメンバーの4人、なかでも香川は、実際に本大会でプレーしてもおかしくない選手だった。そうした若手の前で、無様な姿を見せるわけにはいかない――そんなプライドが、代表23名の選手全員にあったのだろう。

 決勝トーナメント1回戦。パラグアイ戦は、PK戦の末に惜しくも敗れた。



パラグアイ戦に敗れたあと、ピッチで戦った面々を慰める川口能活。photo by AFLO

 試合後、多くの選手がピッチに座り込み、涙に暮れていた。そうした状況のなか、川口は涙を見せることなく、ピッチで戦った選手たちに水を渡すなど、普段どおりの仕事を最後まで全うした。

「試合が終わって、W杯が終わっても、感傷的にはならなかったですね。ベスト16の余韻に浸ることもなかった。この大会での自分の役割はわかっていましたけど、やっぱり選手は試合に出てなんぼ、じゃないですか。終わった瞬間、(所属の)ジュビロ磐田に帰って、レギュラーポジションを奪い返すことしか考えていなかったですね」

 川口の周囲には、同じ思いを持つ選手がたくさんいた。中村俊輔は大会中から、大会後にステップアップするために必要なことをずっと考えていた。中村憲剛も早くチームに帰ってプレーしたいと、すぐに気持ちを切り替えていた。楢崎正剛も、稲本潤一も、まったく同じ考えだったようだ。

 しかし、彼らはW杯期間中、不満な姿勢や言動を一切見せなかった。ただひたすら、献身的にチームをサポートしていた。それは、極めて”プロフェッショナル”な姿勢だったと言える。

 川口も、時には気持ちが折れそうになったり、難しい表情を浮かべてしまうときがあったりしたが、すべて飲み込んでいた。南アフリカW杯における日本の快進撃は、こうしたベテラン選手たちの”献身”と”想い”によって実現したことを、どれほどの人が理解しているのだろうか。

「我慢というか、自分の役割に徹することができたのは、やっぱりドイツ大会の二の舞を演じてはいけない、という気持ちが強かったからだと思う。あの大会は(自分も)31歳で、経験も積んで一番体が動いていたし、アジアカップから最終予選までずっとゴールマウスを守り続けてきたので、自分の中で期するものがあった。メンバーも素晴らしい選手ばかりでした。でも、オーストラリア戦の敗戦でチームはまとまり切れず、結果も出なかった。

(南アフリカW杯のときは)そんなドイツ大会のような悔しい思いは、もう二度としたくないと思っていましたからね」

 川口はそう言うと、少し間を置いてこう続けた。

「南アに自分が呼ばれたのは、そういう経験もあって『チームをまとめてほしい』ということだったと思います。でも、結果が出なければ、僕が行った意味がなくなってしまう。2010年大会は、自分にとって”最後”という覚悟もあったので、チームに何かを残したいと思ってやってきた。そして、幸いベスト16という結果が残せました。

 ただ、選手としてはどうなんだろう……。何も残せていない。やはり、ゴールマウスを守れなかった、その悔しさがずっと自分の中に残っていました」

 そう語る川口の厳しい表情を見ていると、大会中、本当はとても苦しい状態にあったことがよくわかる。だが、それに耐えられるだけの、たくましい”人間力”が彼には備わっていた。

 若い頃は、高みを目指すがゆえ、沸き上がる感情を抑え切れずに周囲と頻繁に衝突し、まるで尖ったナイフのような存在だった。それが、数々の修羅場を経験し、海外でもプレーすることによって角が取れて、チーム全体を俯瞰できる存在になった。

 岡田監督が川口を抜擢した理由は、そうした人間力にあったような気がする。その気持ちの強さを知り、どんな状況にあっても耐えてリードしてくれると思ったからこそ、チームキャプテンに指名したのだろう。

 川口は、2010年南アフリカW杯において、日本代表にとって替えのきかない不可欠な存在だったのだ。2002年日韓共催W杯でチームのまとめ役を果たした中山雅史や秋田豊のように、である。いや、大会直前のチームの不穏なムードを考えれば、それ以上の存在だったかもしれない。

「日本がW杯に出場できるようになって、これまで歴史を重ねてきましたが、やっぱり大事だなと思うのは、チームに影響を与える選手がいるかどうか、だと思うんです。選手としてのプライドを持って、チームのために犠牲になれる選手。そういう選手がチームにいることが、日本代表が(W杯で)勝つための重要なポイントだと思います。それは、これからも変わらないと思います」

 南アフリカW杯では、その”特命”を川口が引き受けた。それは、ケガでリーグ戦に出場していない、という負い目もあったからだろう。そこに付け入る岡田監督は、ある種の”策士”であったと思う。

 そういう意味では、川口が所属のジュビロで万全な状態でプレーしていたら、どうなっていただろうか。”第3GK”“チームキャプテン”と言われて招集された場合、南アフリカに行っただろうか。

「う~ん……、難しい。そういうことは考えたことがなかった。ケガしていなかったら、『第3GK』と言われたらどうかなぁ……。選手としてのプライドもあるし、”第3”というのはすごく難しい。でも、『川口の力が必要だ。今は”第3GK”だけど、競争だ』と言ってくれたら、行くでしょうね」

 南アフリカW杯が終わってジュビロに戻った川口は、8月7日のモンテディオ山形戦で、ほぼ1年ぶりとなるリーグ戦出場を果たした。その後、2013年に9年間在籍したジュビロを退団。J2のFC岐阜を経て、現在はJ3のSC相模原でプレーしている。

 川口が現役を続ける理由はいくつかある。

 ひとつは、イングランドのポーツマスFCでプレーしていたとき、デーブ・ベイセントという44歳のGKが若手に指導しながら、彼自身も現役としてハツラツとしたプレーを見せていたことだ。その姿を見て「GKは何歳になってもやれる」ことを痛感し、現役生活を長く続けていくことの勇気をもらった。

 そしてもうひとつ、最大の理由は南アフリカW杯の経験にあるという。

「4回目のW杯、”第3GK”で”チームキャプテン”としての、ひとつの結果は出せた。でも、ゴールマウスを守れなかった。ピッチに立って、勝利を勝ち取ることができなかった。その悔しさが、選手を続けるためのエネルギーとなって、今も自分の中に残っているんです」

 昔も今も変わらない、サッカーへの情熱を燃やし続ける川口の姿がそこにあった。




日本代表入りは常に目指しているという川口

 2018年ロシアW杯。川口が代表から離れて2回目のW杯が行なわれている。その喧騒のなか、川口は42歳になった今も、日本代表への道をあきらめていなかった。

「まあ、実際は(今の所属先が)J3ですからね。J1でプレーしている選手が(代表に)選ばれるのは当然ですから、厳しいのは承知しています。

 でも、現役である以上は、代表は目標とする場所。日本代表に招集されることは名誉なことですし、今思い返しても、本当に素晴らしい時間を過ごせた。それを経験しているからこそ、簡単にはやめられないし、(自分が)やめる姿も見えない」

 川口はそう言って笑った。

 そして、若き日と同じギラギラとした野心を瞳の奥に輝かせて、こう続けた。

「僕は、あきらめが悪いんで」

(おわり)