テニス界に短いグラスコートの季節が訪れたとき、多くの選手にとって、最後にプレーした芝の記憶はウインブルドンでのそれである。 20歳を迎えた大坂なおみにしても、それは例外ではなかった。6月上旬、約1年ぶりに芝のコートを踏んだ大坂の胸に蘇…

 テニス界に短いグラスコートの季節が訪れたとき、多くの選手にとって、最後にプレーした芝の記憶はウインブルドンでのそれである。

 20歳を迎えた大坂なおみにしても、それは例外ではなかった。6月上旬、約1年ぶりに芝のコートを踏んだ大坂の胸に蘇ったのは、昨年のウインブルドン1番コート――3回戦で、憧れの存在であり同大会5度の優勝を誇るビーナス・ウィリアムズ(アメリカ)と戦った試合だった。



大坂なおみが聖地ウインブルドンに帰ってきた

「今年のノッティンガムで試合をしたとき、あのウインブルドンのことを思い出していた。あれが、私が芝で最後にプレーした試合だったから。覚えているのは、私はすごくすごく、いいプレーをしたということ。芝のコートで、彼女(ビーナス)と試合したのだから……」

 記憶の糸をつむぐ彼女は、目尻を下げ、口角を上げながら、ふと続ける。

「あれは子どものころに、いつかやりたいって夢見ていたような試合だった」。

 日本で姉とともにボールで戯(たわむ)れ、アメリカのニューヨークに渡ってから本格的にテニスを始めた大坂にとって、テニスコートといえば、それは青く塗られたハードコートだった。

 全米オープンは多くの夢の記憶がつまった身近な大会だが、ウインブルドンは物理的にも心理的にもどこか遠い。アンドレ・アガシの試合をテレビで見たのは覚えているが、感情に深く焼き付く思い出は、この大会に関しては特にないと大坂は言った。

 だから、彼女にとってのウインブルドンの記憶とは、自らが体験したものだ。一昨年はケガで欠場したため、去年初めて足を踏み入れた”テニスの聖地”。日ごろは黒や濃紺のウェアを好んで着る彼女は、ウインブルドンの伝統に従い身にまとう純白のウェアに、気恥ずかしさを覚えたという。

 それでも、緑のコート上すべての選手が白を着用する光景を目にしたとき、「わ〜、これがウインブルドンなんだ」と、この会場にたゆたう歴史と伝統に身を浸した。それから1年が経ち、去年よりウインブルドンが身近に感じられることが、今年のうれしい点だと彼女は笑った。

 短期間で増えていくそれらの記憶と同様に、芝でのプレー経験と自信をも、大坂は急ピッチで積み上げている。ビーナス戦の記憶に今を重ねて戦ったノッティンガムでは、自慢の高速サーブを武器にベスト4へと躍進。「芝は、一発でエースを決められるパワープレーヤー向き」との手触りを、確固たる手応えに変えつつある。

 一方で、抱える最大の不安材料は、先週のバーミンガム大会で負った腹筋のケガだ。本日(6月30日)の練習はまだ「テスト」状態で、そこで「痛みなくプレーできた」ために、「明日からは全力でサーブも打てる」という状況である。

「テスト」という意味で言うなら、初戦の相手も今大会の大坂を占う試金石になるだろう。30歳のモニカ・ニクレスク(ルーマニア)はランキングこそ59位だが、バックのみならずフォアハンドからのショットも大半がスライスという 「ツアーでもっともトリッキーな選手」として有名だ。

 滞空時間が長いものの、バウンド後には低く滑るショットで奏でる独特のリズムは、パワープレーヤー相手に大きな効果を発揮する。過去にはセリーナ・ウィリアムズ(アメリカ)らを苦しめ、今年の2月にはマリア・シャラポワ(ロシア)が餌食になった。

 そのニクレスクと、女子テニス界屈指のパワープレーヤーに成長した大坂の対戦は、自ずと識者たちの関心を引く。今大会のドローが決まったときも、多くの報道陣がこの一戦を「初戦屈指の好カード」に推したほどだ。

 大坂本人は、難敵との対戦について「相手が誰でも自分のプレーに徹するだけ」と言いつつも、「スライスに対しては、攻撃と守備のバランスに気をつけなくてはいけない」とプランを思い描いている。「ここにいるのは、いずれも世界のトップ選手ばかり。簡単な相手など、ひとりもいない」とすべての選手を敬い、同時に「大会に挑むとき、常に目指すのは優勝」と静かに頂きを見据えた。

「テニスを始めた理由のひとり」とまで仰ぎ見るビーナスとの戦いの思い出をたずさえ、「またあんな試合がしたいな」との希望に胸を膨らませながら、彼女はウインブルドンのコートへと向かっていく。

 今年で150年を迎える”聖地”の伝統に敬意を抱き、耳に当てたヘッドフォンから流れる「ビヨンセかドレイクの最新アルバム」の楽曲に、闘志を駆り立てられながら――。