4月中旬に足を踏み入れたとき、彼は世界の36位で、その地位を10ほど駆け上がった足跡を赤土の上に残した。 「このクレーシーズンで、テニスはだいぶ戻ってきました」 全仏オープンの4回戦でドミニク・ティーム(オーストリア)に敗れた錦織圭は…

 4月中旬に足を踏み入れたとき、彼は世界の36位で、その地位を10ほど駆け上がった足跡を赤土の上に残した。

 「このクレーシーズンで、テニスはだいぶ戻ってきました」

 全仏オープンの4回戦でドミニク・ティーム(オーストリア)に敗れた錦織圭は、5大会で16試合を戦った今季のクレーシーズンの意義を、そう端的に総括した。



クレーで本来の躍動感あふれるプレーが戻った錦織圭

 その16試合のなかには、世界3位のマリン・チリッチ(クロアチア)に4位のアレクサンダー・ズベレフ(ドイツ)、そして4位のグリゴール・ディミトロフ(ブルガリア/ランキングはすべて対戦時)という3人のトップ5選手から掴み取った勝ち星も含まれる。「赤土の王」ラファエル・ナダル(スペイン)や、この4年間勝利のないノバク・ジョコビッチ(セルビア)に喫した黒星もある。

 昨年8月から今年1月にかけて、右手首の負傷のために戦線を離れていた錦織にとっては、いずれも濃密なる緊張感と高度なテニスのゲーム性を味わわせてくれる、かけがえのない実戦経験だったはずだ。

 クレーでの1ヵ月半が何より大きいのは、錦織の言葉にあるように、復帰直後のハードコートでは依然失われていた「ボールを打ち抜く感覚」を取り戻せたことだろう。それに伴い、どうポイントを奪うかの戦略性や相手との駆け引きの妙も、身体の内から呼び覚ますことができた。

「自分でも不思議ですが……」

 そう前置きして、錦織は続ける。

「(3月の)マイアミ・マスターズまでは、狭いところを狙える感覚がまったくなくて、そこに苛立ちがあったんですが、クレーコートでプレーして、急に感覚が戻ってきた」

 その理由を当人は、「ラリーが長くなり、ストロークでリズムを作れたのが、たぶん一番大きなキッカケになったのかな」と推測する。そのことにより勝利を得、勝利がより強い相手との高質な対戦経験を生み、経験がさらなる心身の記憶を想起する好循環に身を投じた。その結果として至ったモンテカルロ・マスターズの準優勝が、何より大きな自信となる。

「マイアミまでは、ボールとの距離などしっくりいかない部分はありました。クレーでラリー戦が増えて、タイミングも掴みやすいのでストロークに自信がついたことは確かですね。あとはトップ10に勝てたのはすごく大きかったです」

 赤土の上でつかんだ”完全復活への手応え”の内訳を、錦織はそのように説き明かした。

 それら技術や戦術面と並び、錦織が取り戻した懐かしくもかけがえのない感覚が、「テニスを楽しむ気持ち」だろう。

 ローマ・マスターズのときに錦織は、ディミトロフ戦に「楽しみな気持ちで入れた」と言った。全仏オープンの初戦でも久々のグランドスラムに緊張を覚えるさなかで、ふと「楽しまないと」と思い立つ。2回戦の勝利後にも、「技術は必要だけれど、テニスってやっぱり、気持ちの持ちようで変わってくるので」と改めて実感したとも言った。

 かつての錦織は、周囲から「テニスを楽しんでいる?」と問われることに、小さな反発心を覚えているようだった。「楽しくっていうけれど、実際にはプレッシャーや身体の痛みとも戦っているわけで……」とこぼしたこともある。

 だが今は、その苦しみも含めて「楽しむ」ことを、彼は受け入れている様子だ。

「困難なときも、このシチュエーションをどう組み立てていくかとか、どうやって逆転するかというのを考えるのが楽しくもある」

 そのような喜びもまた、ラリーが続き、ドロップショットやロブなど多種多様なショットが効果的なクレーコートだからこそ、取り戻せた懐かしい感覚かもしれない。そういえば錦織は、12歳のころに体験した欧州クレー遠征で、大柄な海外の選手を手玉にとって連勝を重ねたことがある。そのうれしい記憶がしばらくの間、彼に「一番得意なサーフェスはクレー」と言わせていたほどだ。

 そしてもうひとつ、このクレーコートシーズンで得た大きな収穫が、久々に5セットを戦っても手首に大きな痛みを覚えることなく、グランドスラムで4試合を戦い抜けたことだろう。今大会は試合中でも、不安やためらいを覚えることはほとんどなかったという。

 本人も予想していないほどに早く訪れた完全復活への兆しは、さらなる上昇志向の源泉となる。

「復帰当初は、いつでもいいと思っていた」というトップ10入りも、今では、1日も早くとの思いが強い。ローマ・マスターズ時には、全仏でのトップ16シードを「密かに狙っている」とも明かしていた。実際には上位16入りはならなかったが、前年からのディフェンドポイントも多かったこの時期にランキングを上げ、32シードを維持できたのは大きな意味を持つはずだ。

「まずは、トップ10に戻るのが一番です」

 このクレーコートシーズン中に錦織は、幾度かそう口にしてきた。

 彼はこれまでにも、掲げた目標はことごとく実現してきた有言実行の男である。その錦織が公言するということは、彼の視界にはトップ10がとらえられているということだろう。

 赤土で確(かく)たる足場を築いた今、ふたたび、かつていた場所を……そしてその先を目指す旅が、ここから始まる。