W杯を目前に控え、各国とも最終調整に余念がないなか、アルゼンチンが予定していた大会前の最後の練習試合、イスラエル戦が突然、取り消されるという事件が起こった。メッシをはじめアルゼンチン代表はバルセロナで合宿中 photo by Gett…

 W杯を目前に控え、各国とも最終調整に余念がないなか、アルゼンチンが予定していた大会前の最後の練習試合、イスラエル戦が突然、取り消されるという事件が起こった。


メッシをはじめアルゼンチン代表はバルセロナで合宿中

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 そもそも不可解なのは、アルゼンチンがなぜW杯前の対戦相手にハイチとイスラエルを選んだのかということだ。ハイチは現在FIFAランキング104位、イスラエルは93位である。アルゼンチンほどの強豪ならば、対戦したいチームは星の数ほどあっただろう。練習試合といえども、W杯を見据えての大事な試合だ。例えば、ブラジルはクロアチア、ポルトガルはベルギーというように、どのチームも少なくとも1試合はW杯出場国、もしくは同程度の強敵と戦っている。

 イスラエルに関しては、アルゼンチンサッカー協会にはある思惑があった。

 1986年、ディエゴ・マラドーナ擁するアルゼンチン代表はエルサレムに行き、イスラエル代表と親善試合を戦った。選手たちはキリストの聖地を巡った後、そこから直接W杯が開催されるメキシコに飛び、世界チャンピオンに輝いた。

 今回のイスラエル遠征でも、86年と同じ行程が組まれていた。つまり”ゲンを担いだ”というわけだ。しかし、そのゲン担ぎが今回は思わぬ事態へと発展してしまった。

 順を追って、ことの経緯を振り返ってみよう。

 イスラエルでもサッカーは非常に人気が高い。ただし代表チームとなると、過去に1度W杯に出場したことがあるだけ(1970年)。今大会も出場を逃してしまった。落胆したサポーターに、イスラエルサッカー協会はあるプレゼントをすることにした。アルゼンチンとの親善試合である。

 1986年の記憶があるアルゼンチンも異存はなかった。イスラエルはアルゼンチンサッカー協会に200万ドル(約2億2000万円)を支払うという。おまけにリオネル・メッシが1分プレーするごとに5万ドル(約550万円)がプラスされるというリッチなオプション付きだ。アルゼンチンはふたつ返事で承諾した。

 試合は当初、イスラエル北部のハイファという町で行なわれるはずだった。これがそのままだったら、何の騒動も起こらなかったかもしれない。

 だが、イスラエルの政治家たちはこの試合を、政治的に最大限、有効活用しようと画策した。アルゼンチン代表が、メッシをはじめとするスター選手たちが、イスラエルに来ることなどそう滅多にあることではない。イスラエルのスポーツ相は開催地を、ハイファからエルサレムに変えることにした。3万5000枚のチケットは20分で売り切れ、6000枚のチケットは病気の子供や身寄りのないお年寄り、傷痍軍人などに配られた。

 すると、これを知ったパレスチナサッカー連盟が激怒した。

 エルサレムは非常にデリケートな街だ。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の聖地であり、イスラエルとパレスチナ双方が自国の首都であると主張している。この5月にはトランプ大統領がアメリカ大使館をエルサレムに移し、この問題は一気に熱くなっている。アルゼンチンはこのことを考慮すべきだった。今年はイスラエル建国70周年で、アルゼンチンとの試合はそれを祝うような形となってしまったのだ。

 パレスチナサッカー連盟は、まず70人の子供たちにメッシ宛てに手紙を書かせた。アルゼンチンがプレーする予定のエルサレムのスタジアムは、50年前まで、もともと彼らの親や祖父らが住んでいた土地だったと訴えさせたのだ。

 さらにSNSを使って、パレスチナやアラブ各国の人々に、アルゼンチン、特にメッシのユニホームを捨てるように呼びかけた。すると呼応した人々は、アルゼンチンのユニホームに赤い絵の具を塗り、あたかも血塗られたように仕立て、試合が行なわれたら、「アルゼンチンのサッカーの歴史も血にまみれるだろう」と叫んだ。

 アルゼンチン代表はメッシが落ち着いて練習できるからという理由で、彼のホームであるバルセロナで直前合宿を行なっていた。そのバルセロナのホテル前でも、数十人が抗議のデモを繰り広げ、血染めのユニホームが掲げられ、アルゼンチン国旗が燃やされた。

 こうなると、さすがにアルゼンチンの選手たちの間にも動揺が走るようになる。代表のリーダー格であるメッシ、ゴンサロ・イグアイン、ハビエル・マスチェラーノはイスラエル行きを懸念するコメントを出した。

 6月5日、アルゼンチンサッカー協会はついに試合の中止を発表した。その理由は「選手の安全を保障できないから」というものだった。しかし、アルゼンチンサッカー協会を決断に踏み切らせたのは、パレスチナサッカー連盟の「試合を強行するなら、2030年のW杯開催地に立候補しているアルゼンチンに投票しないようアラブ諸国に呼びかけ、もし開催地に決まったとしても大会をボイコットするよう全力で呼びかける」という発言だった。

 試合のドタキャンはすぐに大きな騒ぎとなった

 イスラエル首相はアルゼンチンの大統領に直接電話をかけ、決断を翻すよう依頼したが、大統領は「これはサッカー協会の管轄であり、自分は口を出すことができない」と素知らぬふりをした。

 イスラエルはすでに移動費などの経費をすべて支払っており、それだけでも50万ドル(約5500万円)にのぼるという。また、アルゼンチンはすでに契約金として185万ドル(約2億円)を受け取っている。今後、アルゼンチンが支払う違約金はかなり高額になると思われる。
 
 ただ、選手たちはこの決定を支持しているようだ。

「試合中止は正しい決断だったと思っている。身の危険を感じるような脅しを受けては、こうするしかない。きっとエルサレムに行っても平常心でプレーすることはできなかっただろう。これは決して政治的な決断ではない。我々は誰とも対立してはいない」(イグアイン)

「この決定にはチーム全員が納得している。状況は他の方法がないことを示している。今、何よりも重要なのは精神的に落ち着き、可能な限り身心のコンディションがいい形でW杯にたどり着くことだ。政治がどうとかは我々には何の関係もない」(メッシ)

 一方、アルゼンチン国内の世論は二分している。

 契約を交わしたのに、デモや脅しにも近い抗議で試合を取り止めたのは、国の信用を貶めるという意見もあれば、何より大事なのはW杯をトップコンディションでプレーすることだから、こんな試合はしないほうがよかったという意見もある。しかしどちらの意見も、アルゼンチンサッカー協会の不手際を責めているのは同じだった。

 アルゼンチンサッカー協会の体たらくは何も今に始まったことではない。

 アルゼンチンサッカー界では、35年という長きにわたり、フリオ・グロンドーナ元会長が絶対的権力を握っていた。ところが2014年にグロンドーナが死去すると、その後釜を巡って協会内で激しい後継者争いが勃発。汚職が蔓延し、会長選挙は不正だらけで、FIFAが介入するまでになった。

 そんな状態で、選手たちが落ち着いてプレーすることは難しい。メッシをはじめ並みいるスター軍団を擁しながら、W杯予選では南米の最後の一席をどうにか手に入れたということも、それと無縁ではないだろう。

 そして今回の騒動である。

 今もアルゼンチン代表の混乱は続いている。急遽、イスラエルに代わる試合の相手を探しているが、急には難しいだろう。候補に挙がっているのは小国のサンマリノとアルバニアだが、このままではどことも練習試合ができないまま、W杯の本番を迎える可能性が高い。

 追い討ちをかけるように、もうひとつ不手際が浮上した。アルゼンチンサッカー協会は、選手たちがロシアに渡る前に、「バチカンで法王フランシスコ一世に謁見を賜る」と発表した。法王はアルゼンチン出身で大のサッカーファンでもある。

 しかしその発表から数時間後、バチカンの公式Twitterが、「法王にそんな予定はない」とのコメントを出したのだ。バチカンがこのような否定の仕方をするのは前代未聞のことである。協会側に何らか不手際があったと思われるが、アルゼンチンの面目は丸つぶれだ。

 こうしてアルゼンチン代表は、史上まれにみる最悪のアプローチでW杯を迎えようとしている。ピッチの外での出来事が選手たちのプレーに影響を与えないよう、サッカーを愛する者としては心から願うばかりだ。