2試合を残して、すでにメスの2部リーグ降格は決まっていた。フランスリーグ事情に詳しい記者仲間からも、「メスは来季を見据えて若手GKトマ・ディディロンを起用するようだ」という話を聞いていた。実際に降格直後の試合では、35歳の川島永嗣は控…

 2試合を残して、すでにメスの2部リーグ降格は決まっていた。フランスリーグ事情に詳しい記者仲間からも、「メスは来季を見据えて若手GKトマ・ディディロンを起用するようだ」という話を聞いていた。実際に降格直後の試合では、35歳の川島永嗣は控えに回っていた。



川島永嗣に今シーズンを振り返ってもらった

 ところが、5月19日に行なわれたフランスリーグ最終節のボルドー戦を見るため、メスのホームスタジアム「スタッド・サン=サンフォリアン」を訪れると、配られたメンバー表のスタメンに『16 KAWASHIMA Eiji』という表記を見つけた。

「僕も契約のこと(川島とメスの契約は今季いっぱい)があるし、降格したら『もう試合に出ないだろうなあ』と思っていました。今日はホームの最終戦だから(フレデリック・アンツ)監督が使ってくれたんだろうなと思います。僕もヨーロッパの事情をわかっています。こういう状況で使ってもらえてうれしかった。ただ、結果がよくなかったのが残念です」

 今季のメスは17位トロワに勝ち点7差もつけられるダントツの最下位だった。私が見たボルドー戦のキックオフ前には、ゴール裏の一部サポーターが怒りを露わにしていた。それでもメスの選手には奮起する様子が感じられず、ボルドーにピッチの上を蹂躙(じゅうりん)されまくり、0-4という完敗を喫してしまった。

 川島によると、降格が決まってから「ケガ」と言い出してプレーをしなくなる選手も出るなど、チームのモチベーションの低下は明らかだったようだ。ここ2試合は控えメンバーの数すら揃わぬ有様(ありさま)だったという。ボルドー戦でDFラインを組んだ4人の平均年齢は21歳。とりわけ、両サイドバックのふたりはあまり出場機会のない選手だった。

「今日の試合が今シーズンで一番難しい試合でした。メンバーが限られていたし、スタメンで使える選手も限られていました。試合に出る選手同士で『最後はみんなでがんばろう』という話はしましたけど、難しかったです(苦笑)」

 メスの総失点数は「76」とリーグ最下位だった。38試合中30試合でプレーした川島も、パリ・サンジェルマンやマルセイユ相手に5失点、6失点を喫することもあった。必ずしも満足のいく数字を残せなかった川島だが、それでもアンツ監督の配慮により最終戦でプレーする機会を得た。

 ボルドー戦の4失点のなかには、川島にストップしてもらいたかったゴールもあった。だが、シーズンを通して振り返ってみれば、川島の大量失点をしてもあきらめない姿勢、ビッグセーブ、そしてPKストッパーぶりは現地でも高く評価されていた。2月にはクラブの月間MVPにも選ばれている。

 最後まで試合を見守ったファンはタイムアップの笛が鳴ると、選手たちに労(ねぎら)いの拍手を送った。きっとアンツ監督は、この拍手を川島にも受けてほしかったのだろう。ゆっくりとピッチを1周して観客の声援に応えた川島は、キーパーグロープやユニフォームの上下を丁寧にファンに手渡し、ロッカールームへと引き上げていった。そして、試合後のインタビューエリアに姿を現した川島は、多数のフランスメディアに囲まれて、堂々たるフランス語で質問に答えていた。

 このボルドー戦の前、私はスタッド・サン=サンフォリアンと隣接する「スタッド・デザベーユ」という小さな陸上競技場に行き、メスのリザーブチームの試合を見た。カテゴリーは5部リーグ。20歳前後の若い選手でチームを固めたメスのリザーブチームは圧倒的に相手を押し込むものの、勝負どころで幼さを露呈して0-2で完敗した。ギャラリーは目算でざっと200人ほど。

「僕もあそこで試合をしてたんですよ」と川島は振り返る。2年前、第3キーパーという位置づけでメスに入団した川島は、ひと回り以上も年下の若手選手たちとアマチュアリーグを戦っていたのだ。

 今季が開幕したとき、川島は第2キーパーだった。メスでの出場機会が限られたなかで、川島が日本代表で見せた守りには円熟味を感じたし、メスでの正位置を奪ってからは失点数を超越したリスペクトをフランス国内で得ていた。

 長く海外でプレーする日本人選手は、逆境に強いということで共通している。最初の国にベルギーを選んだ川島の場合、リールセにもスタンダール・リエージュにもファンから愛されるGKがおり、懐疑的な視線を浴びながら自分の地位を築いていった。リールセでは2季連続でチーム内MVPに選ばれ、スタンダールでは2013-2014シーズンに21回のクリーンシート(無失点)を達成している。

 しかし2014-2015シーズンは、ブラジルW杯も含めた前のシーズンの疲労を持ち越してしまい、「自分のキャパシティを超えてしまった」(川島)という状況から極度の不振に陥った。そのときのスタンダールのサポーターから受けた過激な批判には、「サッカーという競技を越えて、人間的な寂しさがあった」とまで川島に言わせた。

 だが川島は、二歩下がっても三歩進む男である。ミスをしても、ケガをしても、無所属になっても、第3キーパーになっても、気づけば前に進んでいるのだ。

「自分のキャリアのなかですばらしい瞬間もたくさんあるけれど、苦しい時間のほうがたくさんあると思う。いちばん大事なのは、自分自身が何を求めてサッカー選手としてやっているかということ。苦しいときに支えになるのは、そこだと思います」

 次の移籍先が決まらぬまま、スタンダール退団からダンディ・ユナイテッド入団まで、半年を要したこともある。チャレンジのためにはリスクを負うことをいとわないのが、川島永嗣である。

「人生は1回しかない。サッカー選手としてのキャリアも1回しかない。挑戦してダメだったら、それはしょうがないし、そのとき考えればいい。だけど、挑戦しないで何かをあきらめるというのは、僕はしたくない。その可能性があるんだったら、常にそこにチャレンジし続けたいなと思います」

 チャレンジするからこそ、川島さんは五大リーグのひとつでプレーできたのでしょうか――。そう尋ねると、「まさか自分が『こういう形の経験』をできるとは思っていなかった」という答えが返ってきた。

「こういう形の経験」とは何か――。具体的に答えてもらった。

「フランスに来たこともそう。ベルギーの後、いろんなことがあって、自分が思っているようなキャリアは踏めないのかなとも思った。今までも自分が思っていた選択肢を得て生きてきたわけではない。実際にある選択肢のなかから、自分は成長を求めて選んでやってきた。

 はたして、(挑戦の結果が)自分が求めている通りの形になっているのか正直わかりませんけれど、自分が情熱を持って臨んでいることは形になっていると思う。今のサッカーに対する情熱が、自分の新たな将来の形を作ってくれると考えています」

 かつて川島は、「(マーク・)シュウォーツァーが41歳で初めてCLに出たことが励みになっている」と言ったことがある。愚問を承知で、「まだシュウォーツァーのようにCLを狙ってますか?」と問うてみた。

「やっぱり、高い目標に向かって進んでいくという自分の指針は変わらない。もちろん、年齢のこともありますが、自分のアンビション(野心)はまったく変わりません。ヨーロッパで上を目指してやり続けたいと思っています」

「無我夢中だった」と振り返った2010年のワールドカップ直後にベルギーに来てから8年――。川島にとって3度目のワールドカップが控えている。

「こんなに早く8年が経つとは思ってなかった。世界のなかでどうやって勝っていけるかを指針にして、海外に出てきた。多くの試練があったし、多くの挑戦をすることもできた。それを出せるか、出せないか。短い時間のなかで求められるのが、ワールドカップだと思います」

 国を背負って戦う名誉に恥じないプレーをしたい――。そう川島永嗣はボルドー戦後に誓った。