映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』の勇壮なテーマ曲が流れるなか、まず錦織圭がコートに踏み出し、次いでノバク・ジョコビッチ(セルビア)がセンターコートに姿を現すと、客席から大歓声が沸き起こった。その声に応じるジョコビッチの手には、すで…

 映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』の勇壮なテーマ曲が流れるなか、まず錦織圭がコートに踏み出し、次いでノバク・ジョコビッチ(セルビア)がセンターコートに姿を現すと、客席から大歓声が沸き起こった。その声に応じるジョコビッチの手には、すでに臨戦態勢であることを示すように、今季から新たに使い始めたラケットが握られている。昨年末に約6ヵ月コートを離れ、復帰した今季もここまで9勝6敗と苦しむも、4度頂点に輝いたこの地でのジョコビッチの人気は絶大だ。



ジョコビッチに逆転負けを喫してうなだれる錦織圭

 過去2勝12敗と大きく負け越すジョコビッチと対戦するとき、錦織は「他の選手とは違った感情になる」のだと告白した。それに加え、会場のこの雰囲気だ。ともすれば飲み込まれかねないが、彼は「そんなに意識はしてなかった。思いっきりプレーをするだけなので」と後に語っている。

 その言葉が事実であることは、試合開始早々のプレーが物語った。フォア、バックともに錦織のショットは深く鋭くジョコビッチのコートに刺さる。立ち上がりのジョコビッチのゲームを、いきなり錦織がブレーク。抑えが効かないようにラインを割るジョコビッチの打球が、ショットの質で錦織が勝(まさ)っていることを示していた。

 ジョコビッチの策を錦織が凌駕した顕著な例が、第4ゲームでの2本のウイナーである。

 ジョコビッチがオープンコートに放ったバックの強打に、錦織はサイドステップで飛びつくと、ストレートへと豪快に叩き込んだ。続くポイントでも、バックのクロスの打ち合いからストレートへと切り返し、最後はバックの逆クロスでまたもウイナー。この2本で流れを強く引き寄せた錦織が、次のゲームもブレークする。第1セットは、錦織が36分で奪い取った。

 完璧とも言える錦織のプレーに加え、今季のジョコビッチは、まだフルセットでの勝利がない。それだけに精神的に切迫するかと思われたが、圧倒的に優位に立つ過去の実績がそうさせるのか、第2セットでのジョコビッチは、確実にプレーのレベルを上げてきた。

 思えば、先週のマドリード・マスターズでの対錦織戦の勝利は、今季のジョコビッチが手にした最高位選手からの勝ち星である。相性と言ってしまえば、それまでだろうか。ジョコビッチは「圭の速いリズムと展開力が、自分の集中力と闘志を引き上げてくれる」ことを認めた。

 また両者には、「バックのダウンザラインと、オープンコートを作るフォア」という共通の特長もある。その持ち味をふんだんに盛り込んだ第1セットの錦織のプレーは、どうやらジョコビッチに、彼の武器が何であるかも思い出させてしまったようだ。

 第1セットからネガとポジが反転したかのように、第2セットではジョコビッチがバックの打ち合いから先にストレートへと展開し、ウイナーを奪う。第1セットで76%を記録した錦織のファーストサーブの確率が、第2セットでは58%まで落ちたことも、流れが反転した一因だろう。全盛期を彷彿させるプレーを見せるジョコビッチが、第2セットを38分で奪い返した。

 第3セットは第2ゲームで、錦織に不運な判定がいくつか重なる。続くゲームをジョコビッチがブレークしたとき、プレス席の記者たちも「これで決まった」とでも言うかのように席を立った。

 しかし試合は、ここからまだもつれる。勝利を意識し、硬さが見えだしたジョコビッチを攻め、錦織が即ブレークバック。続くゲームも3度のデュースの末にキープし、さらに次の第6ゲームではブレークポイントも手にした。

 だが、18本のラリーを重ねた末、最後は錦織のバックがネットを叩く。終わってみれば、この場面が最後の分水嶺(ぶんすいれい)となったろう。1時間6分を要した激闘の第3セットも、ついにはジョコビッチの手に渡る。

 思いきって攻めるべきか、あるいは慎重に組み立てるべきか……。複数の要素が複雑に絡み、時々刻々と「正解」も変化する攻防のなかで、結果的に幾つかのチャンスを逃したその悔いを、錦織は「ただの判断ミスです」のひと言に込めた。

 試合後の会見室で、ポツリポツリと言葉を絞り出す錦織の姿は、周囲を息苦しくさせるほどに悄然(しょうぜん)としていた。だが、その落胆は裏返せば、勝てる試合だったという手応えの表出でもある。

 いつか打開したい――。戦前に口にしていたその「いつか」は、そう遠くない未来に訪れると思わせる敗戦だった。