【長崎美柚 15歳の才能を支える絆】(前編) 4月29日からスウェーデンで開幕する第54回世界卓球選手権(団体戦)の日本代表メンバーのなかに、この春に女子高生になったばかりの15歳の名前があることに驚いた人は多かっただろう。長崎美柚(み…

【長崎美柚 15歳の才能を支える絆】(前編)

 4月29日からスウェーデンで開幕する第54回世界卓球選手権(団体戦)の日本代表メンバーのなかに、この春に女子高生になったばかりの15歳の名前があることに驚いた人は多かっただろう。長崎美柚(みゆう)という卓球選手の存在を初めて知った人もいたかもしれない。



初めて世界卓球のメンバーに選出された長崎美柚 photo by AFLO SPORT

 今月20日に東京・赤羽のナショナルトレーニングセンター(NTC)で開かれた公開練習後の会見で、長崎は「出たいとは思っていたけど、世界ランクも低いし、まさか選ばれるとは思っていなかった。チームを盛り上げて少しでも明るくしたい」と、はにかみながら語った。その世界ランキングは、選考が行なわれた今年3月の時点で128位。層が厚い日本の女子勢では20番手にあたる。

 女子卓球界を牽引する立場になった世界ランキング3位の石川佳純(25歳・全農)、黄金世代と呼ばれる世界ランク5位の伊藤美誠(スターツ)、同6位の平野美宇(エリートアカデミー)、同12位の早田ひな(日本生命)の17歳トリオに続き、無名の少女がランキング上位にいる先輩選手たちを押しのけて5番手の座に大抜擢されたのはなぜか。

“打倒中国”を掲げて戦う東京五輪を2年後に控えるなか、新たに紡(つむ)がれたシンデレラストーリーの背景をレポートしたい。

「チーム美柚」が抱いた夢

 神奈川県藤沢市の小田急線・湘南台駅から5分ほど歩いた住宅街の一角に、「岸田クラブ」の看板がある。地元の中学で数学教師をしながら卓球部の指導をしていた岸田晃が、30年ほど前に立ち上げた卓球クラブである。

 岸田クラブの名が知られるようになったのは、青森山田から明治大へ進学し、現在はシチズンでプレーをしている町飛鳥(まち・あすか)の存在が大きい。2015年1月の全日本選手権男子シングルスで決勝まで進み脚光を浴びた町は、子どもの頃から岸田クラブで腕を磨き、全日本ホープス(小学6年生以下)を制した。

「町のような選手が育つと、私たちもいろんなノウハウを蓄積できます。現在も30人ほどいる子どもたちの指導に力をいれていますが、うちのクラブには卓球を楽しみにやってくるお年寄りたちもいます。美柚の祖母もそのひとりでした。いつも『孫にも卓球をやらせたい』とおっしゃっていて、それじゃあということで、美柚も自然とこのクラブで練習するようになったんです」と、岸田は言う。

 どんな分野でも、才能が刻む第一歩は周囲を驚かせる。

「ちょっとした身のこなしを見ているだけで運動神経がいいのがわかりました。体も大きかったし、その体がゴム鞠のように弾んでいました」

 そう振り返るのは、岸田クラブでコーチを務める村守ひとみである。

「どんなスポーツをやっても、一流になれる資質を持ってる子だと思いました。笑われるかもしれませんが、この子が順調に成長すれば、中国のトップ選手たちとも対等に戦える選手になるんじゃないか。そんな未来まで想像してしまいました」

 村守は自身を「ただのおばさん」と謙遜するが、熱心な卓球ファンなら、その名にピンとくる人もいるだろう。低迷していた日本の男子卓球界の救世主となった水谷隼や岸川聖也が、中学時代に日本を離れてドイツで腕を磨いたことはよく知られているが、彼らと同じ時期にドイツで寝食をともにした村守実の母である。村守は岸川とダブルスを組み、2003年の世界ジュニア選手権で金メダルを獲得する実績も残した。

「私も息子たちを通じて卓球の厳しさを知りましたが、その厳しさがわかっていても、美柚には夢を抱かせてくれる潜在能力がありました。私や岸田代表、普段から一緒に練習している卓球が大好きなメンバーたちにとって、彼女の存在が大きな希望になったんです。みんなが自分たちの経験で培ったいろんなことを美柚のために注ぎ込む日々が始まりました。いってみれば、”チーム美柚”ですね」

 もともと右ききだった女の子は、大好きな祖母を真似て左手でラケットを握った。ボールを打ち始めると、周囲の期待に違(たが)わないセンスで必要な技術を身につけていく。

「勝負に勝つことが大好きな子でした。基本練習はあまり熱心ではなく、実戦形式の練習になると、目の色を変えて取り組んでいました」と岸田は振り返るが、特筆すべきは、チーム美柚が卓球を始めたばかりの少女にボールの回転を常に意識させていたことである。

中国選手に負けない回転量のドライブを

 国際舞台で戦う日本のトップ選手たちに中国選手の印象を聞くと、男女を問わず、ほとんどの選手から「ボールの回転量がすごい」という答えが返ってくる。「だから、狙ったところにボールをコントロールできない」と。

 岸田や村守たちは、目の前に現れた身体能力の極めて高い女の子を、こうした中国選手に対するコンプレックスを払拭できる選手に育てようとした。「幼い頃から回転を意識して練習すれば、中国のトップ選手にも勝るドライブの使い手になれる。今までの日本卓球界にはいなかったタイプの選手になれるかもしれないという期待がありました」と、岸田は言う。

 右利きのサウスポーであることも、その青写真をより明確にした。村守は「体の使い方が右利きなので、バックハンドドライブが最初からうまかった」と振り返る。

 村守が鮮明に記憶しているのは、全日本選手権の神奈川県予選の前に試合を経験させようと、長崎が小学1年生のときに初めて出場させた、静岡県卓球スポーツ少年団オープンのバンビの部(小学2年以下)の準々決勝でのことだ。

 思うようなプレーができず、長崎は明らかに苛立っていた。

「いったい、美柚はどうしたいの?」

 タイムアウトでベンチに戻ってきた長崎に村守が聞くと、7歳になったばかりの少女は「思い切り打ちたい」とだけ言った。実戦経験が乏しかった少女は、負けたら終わるトーナメントのプレッシャーからか、無意識のうちに消極的になっていたのかもしれない。

「わかった。美柚がしたいようにしていいよ。結果は気にしなくいいから、とにかく思い切り打ってごらん」

 そう伝えて小さな背中を押した村守は、その後に目の前で繰り広げられた光景を瞼(まぶた)に強く焼きつけることになる。

 バンビの部で使われる卓球台の高さは66センチで、通常の台よりも10センチ低い。それでも、小学校低学年の女の子が力一杯フルスイングした打球は多くの場合、ネットを大きく超えてそのまま相手の台もオーバーしてしまう。だが、長崎がフルスイングで振り切ったボールはものすごい回転量でドライブがかかり、そのほとんどすべてが美しい弧を描いて相手コートで弾んだ。

「美柚のドライブの力にあらためて驚きました。あれが初めて彼女のスイッチが入るのを見た瞬間でした」と村守は言う。

 大会は決勝で敗れ、全日本選手権の神奈川県予選も最後まで勝ち抜くことはできなかったが、その後の1年で長崎はさらに成長スピードを加速させていく。

 2年生になってバンビの部の県予選を突破すると、全国大会でも両ハンドのドライブとサーブを武器に勝ち進み、日本一のタイトルを獲得したのだ。1年前は県の予選会で姿を消していた無名の少女が勝ち上がっていくと、村守や岸田たちは他府県の卓球関係者からこんな声をかけられた。

「岸田クラブには、中国人のコーチがいらっしゃるのですか?」

 2人は「いません。私たちはただのおじさんやおばさんの集まりですから」と言葉を返したが、初めて見る長崎のドライブに、多くの人が中国選手のプレースタイルを重ねたのだろう。長崎はその後も順調に成長し、4年生のときにカブの部(小学4年生以下)でも優勝を飾った。

 岸田が自分たちの見立てに自信を持ったのは、この年にクラブで中国合宿を行なったときのことである。

 現在は日本生命の監督を務めている岸田の娘、聡子が北京に卓球留学していた縁から実現した合宿には、中国国内でトップクラスの子どもたちも参加していた。年上の中国選手には競り負ける展開が多かったが、現地の中国人コーチは長崎の背中に視線を送りながら岸田にこう耳打ちした。

「今、ここにいる子どもたちのなかで、彼女が一番強くなるよ」




ホープスでも優勝し、年代別のカテゴリーをすべて制した長崎 photo by AFLO SPORT

 中国の指導者がどこにその可能性を見出したのかはわからないが、6年生になって身長が160センチを超えたサウスポーは、バンビとカブに続いて全日本ホープスの部(小学6年生以下)でも頂点に立った。

 年代別のカテゴリーでバンビ・カブ・ホープスの3階級制覇を果たしたのは、あの福原愛以来の快挙である。2014年8月に韓国で開催された東アジアホープスでも優勝した神奈川の天才少女は、小学校を卒業後に東京にあるJOCエリートアカデミーへ進んだ。

「もし、東アジアホープスで優勝していなかったら、エリートアカデミーには入れていなかったと思います。それだけ高いハードルを越えて飛び込んだ環境だからこそ、私たちが美柚に託した”打倒中国”の夢を実現できると思いました。普通のおばさんたちの役割は終わった。これからは成長していく美柚を遠くから見守っていこうと、チーム美柚のみんなが思っていました」と、村守は振り返る。

 だが、故郷を離れ、新たな環境に飛び込んだ俊才が陽の当たる場所に立つまでには、さまざまな曲折があった。

「このままだったら、美柚ちゃん、ダメになっちゃうかもしれない」

 東京のNTCで長崎の練習を見た岸田聡子から、そんな連絡がクラブに届いたのは、みんなの期待を背負った少女がひとりで上京してから1年が過ぎようとしていた頃だった。

(後編に続く)