私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第5回横浜フリューゲルス消滅の舞台裏~三浦淳寛(3) 横浜マリノスへの吸収合併が正式に調印され、”チーム消滅”が決定的となった横浜フリューゲルス。天皇杯の初戦(3回戦)の大…

私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第5回
横浜フリューゲルス消滅の舞台裏~三浦淳寛(3)

 横浜マリノスへの吸収合併が正式に調印され、”チーム消滅”が決定的となった横浜フリューゲルス。天皇杯の初戦(3回戦)の大塚FC(現・徳島ヴォルティス)戦を前にして、ゲルト・エンゲルス監督は選手たちに問いかけた。

「最後の天皇杯は、レギュラーメンバーではなく、(移籍先を探す)アピールのために、普段試合に出てない選手を中心にして戦ったほうがいいか?」

 実は監督の話の前に、選手たちの間で「今後のために(天皇杯では)試合出場の少ない若手選手中心でメンバーを組んで、アピールの場にしてもいいのではないか」という声が上がっていた。

 だが、いざ監督から言われると、デリケートな問題ゆえ、選手たちは口を閉じ、しばらく沈黙の時間が流れた。

 控え組の選手たちは、プレーしたいが、はたしてそれが本当にチームのためになるのか、考えていた。レギュラークラスの選手たちは、控え組の気持ちや状況を理解し、監督がそうと決めたなら、それでも構わないと思っている選手が多かった。

 選手たちが押し黙っているなか、エンゲルス監督が口を開いた。

「僕は勝ちたい。最後まで勝ちにいきたいし、フリューゲルスの強さを見せたい」

 涙を流しながら、エンゲルス監督はそう選手たちに訴えた。

 指揮官の熱い思いに選手たちは胸を打たれたのか、そこから選手たちから意見が出るようになった。その際、三浦淳寛(※現役時の登録名は三浦淳宏)が驚いたのは、救済されるべき控え組の若手から発せられた声だった。

「僕らのことはいい。最後まで強いフリューゲルスを見せていきましょう。優勝しましょう」

 フリューゲルスというチームがこの世に誕生し、存在したことを、永遠に人々の胸に焼き付けるには、最後まで強さを見せなければならない。その強さを見せつけることで、これほど強く、素晴らしいチームが消滅してしまう不条理さを訴えることができる。チームの方向性は決まった。

「優勝まで、1分でも、1秒でも、このチームで長くやっていく」

 天皇杯は、これまでどおり主力選手で編成し、勝ちにいくことになった。

 さらに主力選手たちからの提案で、勝利給は試合に出場しない選手たちにも分配できるようにした。レギュラーの面々は、控え組の”就活”の場をなくしてしまった、という思いがあったからだ。それも、家族的なチームだからこその取り組みだった。

 三浦も最後まで全力で戦う覚悟を決めた。

「優勝するまで、できるだけ長くみんなと一緒にプレーしたかったし、個人的には優勝すれば、『何か起こるかもしれない』『何か起こってくれ』って思っていましたから」

 フリューゲルスは、ひとつにまとまって最後の戦いに挑むことになった。

 大塚FCとの3回戦は4-2で勝利。4回戦のヴァンフォーレ甲府戦も3-0と完勝した。勝つごとにチーム内は活気づいて、勢いが増した。

 そんななか、ある日の練習後、三浦は吉田孝行から声をかけられた。

「アツさん、まだサインしてへんやろ」

 吸収合併するチーム、横浜マリノスからは永井秀樹、吉田、波戸康広、佐藤一樹、そして三浦にオファーが届いていた。他の選手はおおよそ契約を済ませていたが、三浦はまだ契約書にサインをしていなかったのだ。

「声をかけてもらってありがたかったんですけど、ライバルチームに行くことに抵抗があったし、そもそもフリューゲルスを吸収するチームに行くべきなのか、という葛藤が自分の中にあった。マリノスでやっていけるのか、なかなか決心がつかずにいた。

 でも、これ以上(契約を)引き延ばすと、そのオファー自体がなくなるし、僕らがマリノスに行けば、フリューゲルスの”F”は残る。いろいろ考えて悩んだ末に、他の選手たちも移籍先が決まっていくのを見て、ようやくサインすることにしました」

 契約交渉の席で、マリノス側の担当者から「紳士たれ」として、ピアスや茶髪は禁止だと言われた。厳格なルールを強いられたことに、自由な雰囲気の中でプレーしてきた三浦は、それがフリューゲルスでやってきた自分たちへのあてつけのように聞こえた。

 若く、血気盛んだった三浦は猛然と言い返した。

「じゃあ、黒髪にしてピアスを外したら、サッカーがうまくなるんですか」

 マリノスに移籍後、最初のファン感謝デーに参加した三浦は、ダイヤモンドのピアスをつけて登場したのである。

 ちなみに、マリノスに行ったフリューゲルスの選手たちは、冷たい仕打ちを受けたという。フリューゲルスのサポーターからは「裏切り者」と呼ばれ、マリノスのサポーターからは「おまえらなんて応援しない」と言われた。両者の憎しみを背負った三浦は、結果を出して両方に認めてもらうしかないという決意で、1年目は黙々とプレーしていた――。

 最後の天皇杯。フリューゲルスは準々決勝でジュビロ磐田と戦った。前年の年間王者で、その年のファーストステージ覇者である。劣勢が予想されたが、2-1で勝利した。

 続く準決勝は、ジュビロを下して年間チャンピオンとなった鹿島アントラーズと対戦。DF薩川了洋(さつかわ・のりひろ)が退場し、ひとり少ない10人での戦いとなったが、その10人が気迫あふれるプレーを見せて、1-0で勝った。

 当時「2強時代」を築いていたジュビロとアントラーズを撃破し、ついに決勝へ駒を進めた。

 決勝戦の相手は清水エスパルスだった。

 エスパルスは、前年の1997年に20億円を超える赤字を抱えて経営危機に陥り、実質的な親会社であるテレビ静岡が運営から撤退。市民の募金活動と地元企業のサポートにより、新たな運営会社を設立して何とか生き残った。ひとつ間違えば、フリューゲルスよりも先にチームが消滅していたかもしれない。

 そういう意味では、フリューゲルスの状況や選手たちの思いを最も理解しているチームと言える。その分、エスパルスの選手たちはやりにくさもあったのではないだろうか。

 だが、勝負事に忖度(そんたく)などない。試合は両者が激しくぶつかり合う熱戦となった。そして、1-1で迎えた後半27分、吉田が決勝ゴールを決めて、フリューゲルスが戴冠を遂げた。



合併騒動の中、天皇杯優勝を飾った横浜フリューゲルス。photo by Kyodo News

「吸収合併の話が出てから、9戦無敗で天皇杯の優勝も勝ち取った。火事場の馬鹿力ってあるんだなって思いましたね。騒動となってから、選手みんな、メンタル的に不安定な状態になって、そういうなかで練習をするとケガをするから、ほどほどにしていた。それでも、まともに練習していないのに、試合になると力が出た。

 その力を出せたのは、優勝すればチームが存続できると思っていたからだと思います。でも実際は、優勝したときにはみんな、すでに行き先が決まっていた。優勝して(吸収合併が)撤回されても、その契約はナシってことにはならない。結果的に、僕らは何もできなかった。『これで本当に終わりなんだな』って思うと、これまでのいろいろな思いが込み上げてきて、泣けました」

 ピッチ上では、多くの選手が涙を流していた。国立競技場のスタンドに陣取っていたフリューゲルスサポーターの多くも涙した。そして彼らは、最後のセレモニーを寂しげな表情で見つめていた。

 2018年、フリューゲルスが消滅して20年という節目の年を迎えた。

 三浦は、天皇杯の優勝は「奇跡」と言った。

「あんな異常な状況で、あんな最低なコンディションで試合をしたら、普通はもっと早く負けていますよ。そんな状態でも勝ち続け、ジュビロやアントラーズに勝って、優勝した。あれは、奇跡。まさに『スクールウォーズ』の世界だと思います」

 自由で開放的で、アットホームなチームだった当時のつながりは今、”フリューゲルスLINE”という形で続いている。選手はもちろん、スタッフやフロントの人間も入って、やりとりしているという。サンパイオが日本に来たときは、当時のキャプテン山口素弘が中心となり、そのLINEで「みんなで集まろう」という連絡が回ってきた。

 フリューゲルスというチームはなくなり、当時の選手の多くはすでに現役を引退した。だが、今もそのチームに所属していたことを誇りとして、その名前を意識的に残している現役選手がいる。

 名古屋グランパスのGK楢崎正剛である。グランパスに移籍後も、彼の前所属は「横浜フリューゲルス」のまま変わっていない。




フリューゲルスのようなチームを作りたいと語る三浦淳寛氏

 三浦はフリューゲルス時代の経験を、これから指導者やフロントのスタッフとして生きていくなかで活かしていきたいという。

「フリューゲルスは、本当に家庭的なチームで、みんな個性的で仲がよく、早く練習に行きたいって思えるようなチームだった。弱いチームだと『練習、面白くねぇ~』とか選手はよく言っているけど、フリューゲルスの練習は楽しくて、みんなとずっとサッカーをやっていたいと思えた。

 自分が指導者などになったとき、そういうチームを作りたい。それを理想にしているのは、フリューゲルスがあったからなんです」

 フリューゲルスという名前の意味は「翼」。その名のとおり、選手たちはプレーしていたときも、引退した今も、自由に羽ばたく精神を受け継いでいる。

(おわり)