私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第5回横浜フリューゲルス消滅の舞台裏~三浦淳寛(2)第1回から読む>>「横浜フリューゲルス、消滅」という衝撃的なニュースが流れたのは、1998年10月29日だった。その騒動の渦中にありながら、フリ…

私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第5回
横浜フリューゲルス消滅の舞台裏~三浦淳寛(2)

第1回から読む>>

「横浜フリューゲルス、消滅」という衝撃的なニュースが流れたのは、1998年10月29日だった。その騒動の渦中にありながら、フリューゲルスは10月31日、セレッソ大阪との試合をこなした。

 その翌日の11月1日、午後6時。横浜駅西口には、山口素弘、薩川了洋(さつかわ・のりひろ)、三浦淳寛(※現役時の登録名は三浦淳宏)、楢崎正剛ら横浜フリューゲルスの選手、24名が集まった。

「合併反対の署名をお願いします!」

 選手たちは数人ずつに分かれて呼びかけた。


「合併反対」の署名が活動を行なったフリューゲルスの選手たち。photo by Kyodo News

 

 フリューゲルスの横浜マリノスへの吸収合併――。

 愛すべきチームがなくなるのをこのまま黙って見ていていいのか。何かせずにはいられない――フリューゲルスの選手たちは、まずは駅前で署名活動を行なうことにした。

 選手たちの姿を見て、多くの人たちが驚き、足を止めて署名をしてくれた。やがて、人垣ができて、その輪は徐々に大きくなっていった。

「うれしかったですね。小さなスタートだったんですが、こういうことを積み重ねていって『合併を撤回させるぞ!』って気持ちがたかぶりました」

 三浦は声を張り上げて、道行く人に声をかけた。

 しかし、すべての人が好意的にとらえてくれたわけではなかった。横浜にはマリノスファンもたくさんいる。なかには「フリューゲルスは嫌いだ。俺はサインなんかしねぇよ」と、喧嘩口調で吐き捨てる人もいた。

 そういう人に対しても、三浦は「嫌いなチームと一緒になりたくないでしょ。でしたら、署名してください」と、丁寧に頭を下げて署名をお願いした。しかし、署名はしてもらえず、冷たく一瞥(いちべつ)されて立ち去っていく人が多かったという。

 そんなことで、三浦がめげることはなかった。翌日からは練習が終わったあと、選手が住む近くの駅で署名活動を進めることとした。

 三浦は当時、横浜市の仲町台に住んでいた。同じくその近隣に住む吉田孝行と波戸康広にも声をかけて、一緒に行なった。

 吉田と波戸は、兵庫県の名門・滝川第二高出身の同期入団(1995年)ではあるが、当初から”水と油”の関係として有名だった。同じFWというポジションにあってか、互いに異常なライバル心を持っていて、たびたび殴り合いのケンカもしていた。

 三浦はそれを見かねて、吉田と波戸を大分での自主トレに呼んだ。そこで、ふたりの腹の中にある思いをすべて吐き出させて、お互いのわだかまりを取り除いた。それ以来、ふたりは10年来の親友のように仲良くなったという。

 そんなふたりと、三浦はほぼ毎日、駅前に立って署名活動を行なっていた。

 署名活動と並行して、選手会会長の前田浩二らは合併の”白紙撤回”を求めて、クラブ側との交渉を続けていた。そこでの話し合いは、選手たちの情熱もあって、連日紛糾していた。だが結局、結論を変えるまでには至らなかった。

「この頃が一番しんどかった。なかなか思うように練習ができず、その後は署名活動をしていて、毎日が忙しく過ぎていった。同時に、吸収合併の話は静かに進んでいっていたからね。

 夜、駅前に立って、いろいろな人に声をかけて署名をしてもらうんですけど、正直『これをやって意味があるのかな』って思ったときもあった。どのくらい署名を集めたらいいのか、実際に署名が集まったところで、本当に吸収合併の話をひっくり返すことができるのかなって。人間って、弱いからね」

 11月7日、ホーム最終戦となるアビスパ福岡戦。選手たちは、ユニホームの左肩にある『ANA』のロゴを手で隠して入場した。選手はもちろん、サポーターやファン不在で合併を決めた全日空への抗議と反抗だった。

 試合終了後には、ゲルト・エンゲルス監督が挨拶の際に「誰でもいい。助けてくれ」と、涙を流してチームの救済を訴えた。

 同日、『横浜フリューゲルスを存続させる会』がクラブ事務所で全日空と交渉したが、全日空側から横浜マリノスへの吸収合併撤回の意思がないこと、チーム名を「横浜F・マリノス」とすることが改めて伝えられた。

 リーグ戦最終戦(11月14日)となるコンサドーレ札幌戦も4-1と勝利。「チーム消滅」報道が流れてから、フリューゲルスは4連勝を飾って、セカンドステージを7位で終えた。

 2日後、前田選手会長ら4名の選手がJリーグを訪問。川淵三郎チェアマンらと吸収合併の白紙撤回について交渉を行なったが、およそ80分間の会談も特に進展しないまま終わった。

『横浜フリューゲルスを存続させる会』は、30万人を超える署名を集めて全日空に提出。そこで、全日空は「(吸収合併について)再度検討して11月24日までに回答する」とした。

 さらに、フリューゲルスとマリノスの両サポーターの有志が横浜市役所を訪れて、吸収合併撤回への支援をお願いした。

 しかし11月20日、全日空は「横浜マリノスとの合併は回避できない」と最終回答。それを受けて、『横浜フリューゲルスを存続させる会』は吸収合併回避の運動を断念することを決めた。



20年前のことを思い出しながら、淡々と語る三浦淳寛氏

 改めて、三浦が当時を振り返る。

「最終回答が出る前から、前田さんやモトさん(山口)から『(吸収合併撤回は)難しい』って聞いていた。もう日産と全日空とで決めたことだから、(クラブの上層部では)『いまさら何言ってんの?』っていう雰囲気だったらしい。それを、Jリーグも黙って見ていた。

 それでも、自分はまだ諦めていなかったですね。天皇杯で優勝すれば、何か起こるかなって思っていた。優勝するぐらいのチームなんだから、きっと新しいスポンサーが出てきてくれんじゃなかいかって。今思うと甘い考えなんだけど、その頃はそれを信じていた」

 12月2日、吸収合併の調印式が行なわれた。

 フリューゲルスのキャプテン山口らは、その日時を事前に通知してほしいとクラブ側にお願いしていた。だが、通知して現場が混乱するような事態を恐れたのか、クラブから選手たちには何の連絡もなかった。

 クラブ側の対応に、三浦もただ呆れるしかなかった。

 その頃、主力選手には他のクラブから移籍のオファーが届いていた。吸収合併とはいえ、フリューゲルスの選手全員がそのままマリノスに引き取られるわけではなかった。

 苦労したのは、出場機会のない選手や若手選手たちだ。フロントが受け入れ先を探して動いていたが、打診したチームからなかなかいい返事がもらえず、厳しい状況が続いていた。

 翌年からJ2がスタートするようになったとはいえ、J3まである現在よりも受け皿が少なかったこともある。すでに11月には、どのクラブも来季の編成が決まっていたこともある。そして、フリューゲルスだけでなく、どこも台所事情が苦しかったこともあるだろう。

 そういう事態にあって、行き先が決まらない選手たちは、チーム存続に向けた運動にばかり集中するわけにはいかなかった。自らのことはもちろん、家族の生活を守るためにも、来季プレーする場所を探さなければいけなかった。

 そのため、レギュラー組と控え組との間で、次第に存続運動に対する熱量に差異が生じ始めていた。それは、三浦も十分に感じ取っていた。

「みんな、チームを存続させたい。その思いは一緒だった。でも、それぞれ置かれている状況が違うんでね、選手個々で(存続運動に対する)熱意に差はあったと思う。試合に出ている選手はチームがなくなっても他に移籍してプレーできるけど、試合に出ていない選手は移籍先があるかどうかもわからない状態だったわけだから。

 そうなると、生活できない。生きるためには、きれいごとだけじゃ済まなくなる。そういう微妙な立場にある選手たちは、僕らには見せなかったけど、いろいろな思いがあったと思う」

 三浦は当時23歳ながら、若手からは兄貴分的な存在として慕われ、年長の選手たちからも一目置かれていた。そうした立ち居振る舞いができるようになったのは、入団当初に目の当たりした出来事が影響しているという。

「僕がフリューゲルスに入団した年、なかなか試合に出られなかったベテランの選手が何人かいたんですよ。でも、その人たちは練習でも手を抜くことが一切なくて、誰よりも一生懸命やっていた。試合のときも、ベンチやスタンドから本気で応援してくれたし、試合に出ている選手のサポートも率先してやっていた。その姿にすごく胸を打たれたというか、陰で支えてくれる選手の重要性を知りました。それが、その後の自分(の振る舞い)に、かなりの影響を与えたと思う」

 それから数年後、三浦は日本代表のジーコ監督時代に、そうしたベテランの立場になってチームを支えた。あまり出番はなかったものの、常に先頭に立って練習に取り組み、ベンチにいながらも献身的な姿勢でチームのサポート役を果たした。

 2004年のアジアカップ優勝は、そんな彼の存在があってこそ、と言われている。また、ドイツW杯最終予選では、チームのまとまりが欠けるなか、アウェーのバーレーン戦の前にキャプテン宮本恒靖の呼びかけでミーティングを開いた。そのとき、三浦の発言をきっかけにしてチームが一枚岩になった。「アブダビの夜」として知られる、日本代表のターニングポイントである。

 さて、フリューゲルスは天皇杯、最後の大会を戦う前にチーム内は揺れていた。

 それは、どういうメンバーで戦うべきなのか。選手たちに、決断が託されていたからだった。

(つづく)