私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第5回横浜フリューゲルス消滅の舞台裏~三浦淳寛(1) 衝撃的なニュースが流れたのは、1998年10月29日の朝だった。「横浜フリューゲルス消滅」 スポーツ新聞各紙が一面で取り上げ、市内の東戸塚にあ…
私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第5回
横浜フリューゲルス消滅の舞台裏~三浦淳寛(1)
衝撃的なニュースが流れたのは、1998年10月29日の朝だった。
「横浜フリューゲルス消滅」
スポーツ新聞各紙が一面で取り上げ、市内の東戸塚にあった横浜フリューゲルスのクラブハウスは、その件で多くのマスコミが押しかけて騒然となっていた。
練習のために集まっていた選手たちも落ちつかない様子だった。三浦淳寛(※現役時の登録名は三浦淳宏)は、その光景をどこかフンワリした感情で見つめていた。
横浜フリューゲルスがなくなってしまう――そんな実感などなく、どこか遠い世界の出来事のように思えていたのだ。
横浜フリューゲルスはJリーグ発足時、JSL(日本サッカーリーグ)で戦っていた全日空に、ゼネコンの佐藤工業が共同出資する形で誕生した。
チームの指揮官は、加茂周監督。”ゾーンプレス”戦術を敷いて話題となり、1993年の天皇杯を制した。
その後、1996年にはブラジルの各クラブで手腕を発揮してきたオタシリオ監督が指揮官に就任し、ジーニョ、セザール・サンパイオなど現役のブラジル代表が活躍。さらに、日本代表の山口素弘、楢崎正剛、アトランタ五輪の日本代表キャプテン・前園真聖ら、力のある日本人選手も数多く在籍していたことで、リーグ戦では優勝争いを演じた。
1997年もリーグ戦で上位を争い、1998年には「黄金世代」の遠藤保仁ら有望な若手が多数入団。チームとして、さらなる飛躍が期待されていた。
だが、クラブの成長とは反対に、世の中はバブル崩壊後の厳しい時代にあった。その年、佐藤工業が自社の経営の悪化を理由に、クラブ運営からの撤退を決断。全日空も赤字経営の中、単独ではクラブ運営を保持できないと判断し、横浜マリノスに”クラブの合併”を提案したのだ。
マリノスの親会社である日産もその旨を了承し、フリューゲルスはマリノスに吸収合併されることとなり、事実上、チームが消滅することになった。Jリーグもそれを、あっさり承認したのである。
三浦は前日の夜、顔見知りの新聞記者から「チームがなくなるらしい」という話を聞かされていた。だが、三浦はその話をとても信じる気にはなれなかった。そんな大変なことが本当なら、まず選手に説明があってしかるべきだと思っていたからだ。
クラブ内においても、そうした前兆すら感じなかった。それでも、なんとなく胸騒ぎがして、その夜、キャプテンの山口に電話を入れた。
「どうなんですか? 本当になくなるんですか、うちのチーム」
三浦の問いかけに、山口は沈んだ声でこう答えたという。
「どうやら(チームがなくなるのは)本当らしい。ただ、細かいことはわからない」
三浦は当時のことを思い出して、深刻な表情でこう語った。
「とにかく、チームが消滅するなんてまったく信じられなかった。佐藤工業の業績がよくないのは知っていたけど、『いきなり消滅はないだろう』って思っていたから。(吉田)孝行らにも電話をして話をしたけど、誰もその噂を信じていなかった。でも翌日の朝、クラブハウスが大変なことになっていた。『あ~、やっぱり(クラブがなくなるのは)本当だったのか』って、すごいショックを受けた」
20年前に起こった
「悲劇」について語る三浦淳寛氏
1998年は、日本サッカー界に大きな波がやってきたシーズンだった。6月、日本代表が初めてW杯(フランス大会)に出場し、日本中が沸いた。結果は3連敗に終わったものの、社会現象になるほどの騒ぎだった。
日本代表を頂点とするサッカー人気が沸騰し、日本のサッカー界は、2002年の日韓共催W杯に向けて、さらにこの機運を高めていこう、という状況にあった。
突然の消滅騒動は、その盛り上がりに水を差すものだった。
その日の練習前、会議室に全選手、スタッフが集められた。そこで、社長から簡単な説明がなされ、結論が書かれた紙が1枚、それぞれに渡された。
一方的に通知だけして出て行った社長の姿勢について、さらには新聞報道が出る前にまったく説明がなかったことについて、多くの選手が憤り、フロントへの不満を爆発させた。
「フリューゲルスがなくなるっていきなり言われて、そりゃ、腹が立ちましたよ。順番が違うだろって。マリノスとの吸収合併を決める前に、なぜ選手に話をしてくれなかったのか……。
佐藤工業が苦しいっていうのは聞いていた。だから、誰ひとり(佐藤工業がクラブ経営から撤退することについては)文句を言うことはなかった。むしろ、会社が苦しい状況の中でサポートしてくれたことに感謝していたし、そんな中でも一緒に戦ってきてくれて、個人的には”ファミリー”だと思っていた。
でも、一番肝心なことを僕らに何も言わずに決めてしまった。(すべてを決める前に)選手にも相談して、みんなにも話をしてくれれば、もしかしたらチーム存続の可能性があったかもしれないし、他にいい解決策を見つけられたかもしれない。それなのに……。フロントの対応には裏切られた感があって、すごく寂しいなって思いましたね」
三浦の思いは、選手の誰もが抱いたものだった。
フリューゲルスは当時、チームの雰囲気がJリーグ18チームの中でも飛び抜けてよかった。茶髪だろうが、ピアスをしようが関係ない。練習場の駐車場には派手な外車が連なっていた。
とにかく、個性的で、自由で開放的なクラブだった。選手間の結びつきも他のクラブより強く、選手とフロントの関係も良好だった。
だからこそ、選手たちは「なぜ相談してくれなかったのか」という思いが強く、すべてが選手の知らない”密室”で決められてしまったことに対して、怒りが収まらなかったのだ。
当日の練習は、10時スタートから14時スタートに変更されて自主参加になった。選手たちの心理面でのショックが大きく、練習できる状態ではなかったからだ。
「俺ら、どうなるんですか」
「俺なんて、来年からプーだよ」
「もう、みんな戸惑って、頭の中が混乱していたし、練習はやったかどうかさえ覚えていない」
そう三浦が振り返ったように、それほど現場は混乱していた。
フロントから決定事項だけを知らされたその夜、三浦は山口や薩川了洋(さつかわ・のりひろ)らと今後のことについて話し合った。
「佐藤工業が(クラブ経営から)下りるのは仕方がない。でも、フリューゲルスは人気のあるチームなので、新たにスポンサーを募れば他のところが見つかって、今のまま(クラブが)継続できるんじゃないかって思っていました。そういう話をモトさん(山口)たちとして、その場は盛り上がったんですが……」
しかしJリーグは、新聞紙上で事態が表面化したその日に理事会を開いて、フリューゲルスのマリノスへの吸収合併を承認していた。
Jリーグは、”チーム解散”という最悪の事態を回避するための策として了承したのだが、選手にとってみれば、チームがなくなることに何ら変わりはなかった。
「(Jリーグの)この決定も衝撃的でしたね。報道が出た、その日でしょ。ということは、ずいぶん前から(合併の)話が出ていたってことじゃないですか。『なんだよ、結局は上同士ですべて決めているんだ』『自分たちやサポーターは置き去りで、そこには存在しないんだ』って、思いましたね。でも、僕自身はJリーグの決定を聞いて、逆に燃えてきましたよ。ますますフリューゲルスを何とかしたい、チームを残したいって思うようになりました」
当然のことながら、翌日になっても選手たちが平静さを取り戻すことはなかった。練習はもちろん、試合をこなせるような状況ではなかった。一部の選手からは「チームがなくなるなら、試合に出ても無意味。ボイコットすべきだ」という声も上がった。
しかし、試合をボイコットしたところで、事態は何も変わらない。「試合を無にすることだけは回避しよう」と山口らが説得し、ボイコット案はボツになった。
10月31日、横浜国際総合競技場で行なわれたホームのセレッソ大阪戦は、試合前から異様な雰囲気に包まれていた。
「正直、騒動となって以来、練習はほとんどできていなかった。チームがなくなる不安とクラブへの不信感が募る中で集中するのは難しかったですね。でも、試合に勝たないと何も始まらないし、先にもつながらない。チームを存続させるために、試合のときはみんな必死だった」
不穏な空気が漂っていたスタンドとは打って変わって、ピッチ上の選手たちは目の前の試合に全力を注いだ。その結果、練習不足など感じさせない強さを見せつけて、7-0と大勝した。
試合終了後、クラブの説明を求めて多くのサポーターがスタンドに居座った。
「フリューゲルスを存続させてほしい」
サポーターの願いは、ただひとつだった。
同じ頃、マリノスも試合後、フロントがフリューゲルスの”吸収合併”について、サポーターに説明していた。
マリノスのサポーターも”吸収合併”には断固反対だった。同じ都市のライバル同士であり、両チームの成り立ち、クラブのスタイル、個性などはまったく異なっていたからだ。
財政面の問題解消のため、「同じ横浜市のクラブだから」というくくりでチームをひとつにする。そんな乱暴なやり方に、双方のサポーターが納得するはずがなかった。
10月31日、クラブ側とサポーターとの話し合いは深夜にまで及んだ。photo by Kyodo News
横浜国際総合競技場での話し合いは4時間以上にも及んだ。話し合いは決着することなく、会場が閉じられたあとも300人のサポーターが残り、スタジアムの外で話し合いが続いた。
夜が深まり、日付が変わっても話し合いは続いたが、クラブからは何ら納得のいく回答は得られず、午前2時に一旦仕切り直し、ということでその日は散会となった。
「(サポーターが)話し合いを継続している中、僕ら選手も何もせずに黙っているわけにはいかない。チームの存続のために『やれることをやろう』と、次の日からマリノスとの合併撤回を求める署名運動をすることにしたんです」
チーム存続に向けて、選手とサポーターの”戦い”が始まった。
(つづく)