敬虔なクリスチャンである彼は、勝利の後いつもそうするように、胸の前で十字を切り、その手をマイアミの青空へとかざした。 その背後を横切る錦織圭は、ラケットバックを担いで出口へと向かいながら、歓声に軽く手を振り応じる。フアン・マルティン・…

 敬虔なクリスチャンである彼は、勝利の後いつもそうするように、胸の前で十字を切り、その手をマイアミの青空へとかざした。

 その背後を横切る錦織圭は、ラケットバックを担いで出口へと向かいながら、歓声に軽く手を振り応じる。フアン・マルティン・デル・ポトロ(アルゼンチン)との8度目の対戦は、2-6、2-6の敗戦。6位と33位という、両者の現時点での立ち位置が反映された結果だと見ることもできるかもしれない。



試合後に健闘を称え合う錦織圭(左)とデル・ポトロ(右)

 ジュニア時代から互いを知るふたりが初めてツアーレベルで戦ったのは、10年前の全米オープン4回戦だった。

「テニス界の未来」と目された10代対決を制したのは、1歳年上のデル・ポトロ。試合後、錦織との初対戦の日を覚えているかと問われたデル・ポトロは、「もちろん! 12~13歳のころで、圭はこんなに小さくてね」と人懐っこい相好を崩し、手のひらを腰のあたりでヒラヒラ揺らす。19歳にしてベスト8に進んだ1歳年長者の姿は、錦織が1年後にいるべき場所を示す道標のようだった。

 その1年後の全米で、デル・ポトロは決勝でロジャー・フェデラー(スイス)を破り優勝トロフィーを掲げる。一方の錦織は、メスを入れた右ひじをギプスで固め、テニスに背を向けていた。1年前に活躍した大会の情報は、耳にも入れたくないころだった。
 
 だが、栄冠を掴んだデル・ポトロもまた、ケガと無縁ではいられなかった。全米後は右手首の痛みに苦しめられ、9ヵ月の戦線離脱を余儀なくされる。そこから徐々にベスト時のフォームを取り戻し、2012年にはトップ10に返り咲いた。

 この年、錦織とデル・ポトロは2度対戦し、いずれも勝利はデル・ポトロの手に。それでも接戦となったロンドン五輪での一戦が、当時「初めてかも」と言うほどのスランプに陥っていた錦織に復調の契機を与えた。

 常にデル・ポトロが先行していた両者の足跡が交錯したのは、2014年のこと。錦織がマイアミ・オープンでベスト4入りし、覚醒の兆しを見せたころ、デル・ポトロは左手首にメスを入れる。そのケガからの復帰には約2年を要し、その間、ふたりの対戦もなし。2016年に4年ぶりに対戦したときのランキングは、錦織が5位で、デル・ポトロが42位。この試合で錦織は、デル・ポトロから初勝利を手にした。

 それから1年半後の今大会で、ふたりはふたたび立場を入れ替え対戦する。昨年8月以降、手首のケガで6ヵ月コートを離れた錦織と、2大会連続優勝でマイアミ入りしたデル・ポトロ。錦織にとっては、これが復帰以来13試合目で、ツアーレベルに限れば7試合目だ。

 この一戦で何かを掴みたいという錦織の切望は、試合立ち上がりのプレーに込められていた。第1ゲームではファーストサーブをすべて入れ、1ポイントも与えずキープ。続くゲームでも鋭いフォアを深く打ち込み、相手を走らせウイナーを叩き込む。ブレークのチャンスは逃すものの、第3ゲームもネットプレーを交えて簡単にキープ。試合開始から約15分――勢いは、錦織の側にあった。

 しかしこの第3ゲームで、かすかな不安の予兆が顔を出す。それは、ドロップショットのミス。デル・ポトロをベースライン後方に押しとどめ、前のスペースを使うのは狙いどおり。ただ、その決め球でミスが出た。さらに続くゲームでも、錦織はドロップショットをネットにかけている。

 それに対し、次の錦織のサービスゲームで、デル・ポトロが絶妙なドロップショットを沈めてみせた。強打に緩い球も混ぜ、錦織を揺さぶるデル・ポトロが3度のデュースの末にブレーク。すると堰(せき)を切ったように、試合の趨勢(すうせい)は一気にデル・ポトロの勝利に向けて流れ出した。

 錦織にはミスが増え、デル・ポトロはますます硬軟織り交ぜた多彩な攻めを見せる。第2セット最終ゲームの最初のポイントで、ドロップショットからパッシングショットにつなげたデル・ポトロのプレーは、この日の試合を象徴するようだった。

「ファーストセットはすごくチャンスがありながら……。いいプレーが出だしはできていたが、小さな自信や安定感だったり、そのあたりに足りていないところがあるので、持続できなかったです」

 少しの勇気や試合勘の欠如、さらに風邪のため1週間練習ができなかったこと……それら細かい複合的要因が、「持続できなかった」背後にあると錦織は見る。

 対して勝者は、この試合で効果的に決めたドロップショットは「試合前のプラン」だと言った。

「あらゆるショットを使って、彼(錦織)を走らせることを考えていた。うまくできたと思う」

 人柄がにじみ出る朴訥(ぼくとつ)な口調で語るデル・ポトロは、こうも続けた。

「圭はまだ、パワーを取り戻している途中だと思う。でも、彼は復帰への正しい道を歩んでいる。以前のようないい試合をするには、もう少し時間が必要なんだと思う」

 さらに彼は、自身もまだ左手首のケガからの復帰過程にあること、そしてケガは必ずしも負の側面ばかりではないと説明する。

「今でも毎日、2~3時間は治療を受けなくてはいけない。僕がテニスを続けたければ、そうするしかないんだ。でも、僕のバックハンドはどんどん上達している。スライスやドロップショットなどを使い、緩急をつけられるようになった。それは今後に向けて、とてもいいサインだと思う」

 デル・ポトロと同様に、錦織も手首のケガをプレー改善への足がかりにしようとするひとり。その最たるものがサーブで、「(手首に)負担がかからないようにしたいので、その意味ではよくなっています。今のフォームに変えてから打ちやすくもなった」と、好感触を得ているようだ。

 復帰からここまでの2ヵ月間に関しては、物足りなさを感じながらも、手首の痛みが出なかったなどポジティブな要素も多いという。敗れたデル・ポトロ戦にしても、「チャンスボールをミスすることが多かったが、そこまでの組み立てはできているので、完全に打ちのめされたわけではない」と言った。

「もうちょっとのところにいるのかな……というのは感じますね」

 静かながらも、芯の通った声で彼は言った。

 必要なピースは、すでに手のなかにある。それらを噛み合わせるきっかけさえ掴めれば……という手応えが、彼のなかには確かにある。