「流すかも」と予感していた感激の涙も、「いつかやりたい」と思っていたラケットを放る歓喜の表出も、実際には存在しなかった。 代わりに、自身の打球の行方をジッと凝視していた彼女は、主審の「ゲームセット」の声と1万6000人の大歓声を聞くとよ…

「流すかも」と予感していた感激の涙も、「いつかやりたい」と思っていたラケットを放る歓喜の表出も、実際には存在しなかった。

 代わりに、自身の打球の行方をジッと凝視していた彼女は、主審の「ゲームセット」の声と1万6000人の大歓声を聞くとようやく笑みをこぼし、胸の前で控えめにガッツポーズを握りしめる。



優勝スピーチで思わず笑ってしまった大坂なおみ

 それが、大坂なおみがグランドスラムに次ぐグレードのBNPパリバオープンでツアー初優勝を成し遂げた瞬間の光景だった。

 2014年に16歳にして世界19位のサマンサ・ストーサー(オーストラリア)を破り、2016年には4大大会のうち3大会で3回戦に進出するなど、これまで数々の印象的な勝利を手にしてきた大坂。だが、その彼女が不思議と縁がなかったのが、トーナメントでの”優勝”だ。

 14歳からプロとしてITF(国際テニス協会)主催の国際大会に出場し始めた大坂は、15歳時に賞金総額2万5000ドル(約265万円)の大会で決勝に初進出。以降、2016年の東レ・パンパシフィックオープンを含む6つの大会で決勝まで勝ち進むも、いずれも頂点には手が届かなかった。

「決勝まで行くと、そこで満足しちゃうみたいなの……」

 かつて大坂は、かすかなコンプレックスをにじませて、無冠の理由をそう打ち明けたことがある。

 強い相手と戦うのは楽しく、勝てばうれしい。だが、トーナメントを勝ち切るには最低4試合、大きな大会なら7試合を連勝しなくてはいけない。長丁場を戦い切る安定感と集中力……それが、過去の彼女に欠けていたものだった。

 その大坂が今大会は、準決勝で世界1位を破っても、「まだ大会は終わっていない」と満足感に浸ることがなかった。決勝を戦い終えた後ですら、「明日も試合があるような気がして……まだ状況を飲み込めていないのかな」と小首をかしげて小さく笑う。それらのメンタリティこそが、今大会での7連勝と、7度目の正直となるツアー優勝を彼女にもたらした最大の要因だ。

 振り返れば今大会は、大坂の精神的な成長を世界に示す勝利で幕を開けた。彼女が1回戦で対戦したのは、元世界1位のマリア・シャラポワ(ロシア)。5度のグランドスラム優勝を誇る女子テニス界のスーパースターは、幼き日の大坂がその精神面の強さに敬意と憧れの目を向けた存在だ。

「どんな状況でも表情を変えず、常にクールに戦い続ける彼女を見て感動し、自分もそうしたいと思った。マリア(・シャラポワ)のメンタリティと、セリーナ(・ウィリアムズ)のプレーを組み合わせた選手になれたら、どんなにかっこいいだろうって……」

 テレビに映るシャラポワのポーカーフェイスから「多くを学んだ」大坂は、その成果を”お手本”に提示するかのように、コート上で冷静に振る舞った。追い上げられても精神的に乱れることなく、いずれのセットも競った展開から最後に突き放して、シャラポワから勝利を得る。

「以前の私だったら、追い上げられた時点でイライラしていたと思う。精神的に強くなったことを示せたのがすごくうれしい」

 試合後に大坂は、勝因として真っ先に自身の内面の変化をあげた。

 子どものころに憧憬(しょうけい)を募らせた相手を乗り越えたことは、これ以上ない成長の証(あかし)として、大坂に自信を植えつける。また、初戦の相手がシャラポワだと知った時点で「そこから先のドローを見るのはやめた」ことも、目の前の試合のみに集中できる環境を必然的に作り上げた。

 2回戦で2012年ウインブルドン準優勝者のアグニエシュカ・ラドワンスカ(ポーランド)を、準々決勝では世界5位のカロリナ・プリスコバ(チェコ)を破った大坂は、準決勝では世界1位のシモナ・ハレプ(ルーマニア)をもストレートで撃破する。新たなスター誕生の予感にファンや関係者は色めき立つが、周囲の喧騒をよそに、大坂は淡々と、なおかつ柔らかな笑みをまといながら、同期のダリア・カサトキナ(ロシア)が待つ決勝戦へと歩みを進めた。

「すごく緊張していた」と後に明かした決勝戦は、いきなりブレークを許す雲行き怪しいスタートとなる。だが、ナーバスになっていたのは、キャリア最大のタイトルに挑む「早熟のライバル」も同じである。

 大坂がミスを減らして粘り強くボールを返すと、カサトキナにもミスが増え始めた。その相手の心理を読み取ったか、大坂はパワーショットをあえて封印し、サーブも球速より安定性を重視する。不要なリスクは負わず、それでもブレークポイントなどの要所では強打で攻めた大坂が、第1セットを6-3で奪った。

 第2セットに入ると大坂は、安定のプレーに攻撃性もブレンドし、立ち上がりから相手を突き放す。

「第2セットの4-1になったころから、ようやく緊張が取れて、いつも通りのプレーができるようになった」と後に笑った大坂は、最後は豪快なスイングボレーを相手コートに叩き込んだ。

 ボールが”イン”であることを指し示すラインパーソンの腕の動きと、それに続く「ゲームセット」の主審のアナウンス――。20歳の初々しい女王の誕生に熱狂する観客の大歓声がスタジアムを満たすなか、その中央に立つ勝者だけが、まだ試合が生む緊張感の余韻のなかにいるようだった。

「こんにちは、私の名前はナオミです」という、おそらくは大会史上初であろう自己紹介から始まる優勝スピーチに、記者会見やフォトシューティング……それらを慌ただしくこなした大坂は、優勝の2時間半後には大会が用意したプライベートジェットに乗り込んで、次の戦いの地であるマイアミへと旅立った。

 7度目の正直で手にした初優勝も、今や「未来の女王候補」に満足感を与えることはない。つらねた7つの勝利のその先に続く物語を、彼女は住み慣れたフロリダの地に描きにいく。