【短期連載・ベンゲルがいた名古屋グランパス (10)】(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)から読む>>1998年に、プレミアリーグとFAカップの2冠を手にしたベンゲル photo by Reuters/AFLOアーセナ…

【短期連載・ベンゲルがいた名古屋グランパス (10)】

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1998年に、プレミアリーグとFAカップの2冠を手にしたベンゲル

 photo by Reuters/AFLO

アーセナルでの再会とインパクト

 本当にここに、クラブハウスがあるのだろうか――。

 ハイウェイ沿いの一本道、殺風景な路地でタクシーを降ろされた中西哲生と平野孝は不安にかられていた。周囲には看板もなければ、目印となるものもない。しかし注意深く見ると、住居が数軒並ぶ脇の小路の先に、黒くて大きな門がある。2人はそこに近づいていった。

 2001年1月、中西と平野はアーセン・ベンゲルに会うために、ロンドン郊外を訪れた。
 
 前年限りで現役生活にピリオドを打った中西は、今後の身の振り方を考えるうえで、まずはトップ・オブ・トップのサッカーを見ておきたい、と考えていた。

「ベンゲルの最後の試合になったレイソル戦の前日、練習が終わった後に『引退したら見に行ってもいいですか』とベンゲルに聞いたら、『いつでも構わない。連絡先はグランパスに伝えておくから』と言ってくれたんです」

 引退を決めたあと、さっそくベンゲルにFAXを送り、訪問の希望を伝えた。それから1、2回やり取りをしたが、最後の返事は届かなかった。

「ベンゲルも忙しいんだろうな、と思って、アポイントに対する正式な承諾を得ないままロンドンに行ったんです。だから、トレーニング場の正確な場所も知らなかったし、本当に受け入れてもらえるのかもわからない。大丈夫かなって不安でしたね」

 一方、当時26歳で、バリバリの現役選手である平野はこのとき、所属する京都サンガがJ2に降格したばかりだった。

「残留すべきかどうか迷っているところでした。それに、自分のプレーにも迷いが生じていて、初心に戻るというか、答えを見つけるためにベンゲルに会いたくて」

 そんな2人が意を決して黒い門のインターホンを押すと、しばらくして門が開き、中に招き入れられた。歩を進めると、右手の駐車場には高級車がずらりと並び、正面には白い建物が建っている。それが、1999年に竣工したアーセナルの新しいクラブハウスだった。

 そのロビーで懐かしい人物と再会した。コーチのボロ・プリモラツである。プリモラツは中西と平野を2階のレストランに連れていくと、「もうすぐ練習が始まるから、しばらくここで待っていてくれ」と言い残して去っていった。

 2人がコーヒーを飲みながら待っていると、プリモラツが戻ってきて練習場に案内された。そこに、かつての”ボス”がいた。

「ベンゲルから『どれくらいいるんだ?』と聞かれたので、『1週間ぐらいいます』と。『僕は見学するだけだけど、平野は練習に参加させてもらえませんか』と頼んだら、『お前もやればいいじゃないか』と言われました」

 こうして、中西と平野はアーセナルの練習に参加することになった。

 当時のアーセナルには、ロベール・ピレス、ティエリ・アンリ、パトリック・ビエイラといった1998年フランス・ワールドカップの優勝メンバーを中心に、イングランド代表のデイビッド・シーマンやトニー・アダムス、オランダ代表のデニス・ベルカンプ、スウェーデン代表のフレデリック・リュングベリといった錚々(そうそう)たる顔ぶれがいた。

 その技術の高さに平野は驚かされたが、それ以上に衝撃を受けたのは、トレーニングメニューが名古屋グランパス時代となんら変わらないことだった。


サッカー人生の岐路でベンゲルを訪ねた平野孝

 photo by Tanaka Wataru

「7対7もシャドーのパターン練習も同じでしたね。ただ、例えば、4対2のボール回しは一般的には8m×8mのスクエアでやるんですけど、アーセナルではそのスクエアが大きいんです。それだと少しミスするだけで繋がらないのに、パンパンパンって繋がる。自分も加わったんですけど、自分が一番ミスしていました」

 さらに、平野の記憶に強烈に刻まれていることがある。ブラジル代表のシルビーニョと対峙したとき、ドリブルで仕掛けずパスを出すと、ベンゲルに「なぜ仕掛けない? お前の武器は仕掛けることだろう?」と、グランパス時代と同じことを指摘されたのだ。

「ハッとさせられましたね。その頃、リスクを負って勝負するより、ボールを大事にすることや、ボールを失わないことのプライオリティが高くなっていたんです。仕掛けることこそ、自分の持ち味だったのに」

 初心を思い出させられると同時に、大いに刺激を受けた。

「やっぱり、練習からトップレベルの選手としのぎを削っていないとダメだなって」

 日本に帰国したあと、平野はサンガに退団を申し入れ、鹿島アントラーズとの2強時代を築いていたジュビロ磐田への移籍を決める。ジュビロが伝説のシステム、「N-BOX」を生み出す直前のことである。

 平野はその後、現役時代に2度、アーセナルを訪ねている。いずれもサッカー人生の分岐点を前に悩んでいるときだった。

「2度目はヴェルディで3年間プレーして、J2に降格してしまったとき。3度目は引退するかどうか悩んでいるときでした。ベンゲルはいつも僕を受け入れてくれましたし、引退した後も、毎年のように勉強しにいっていました」



ベンゲルの教えを本にして広めた中西哲生 photo by Tanaka Wataru

 一方、平野とともに練習に参加した中西が強い印象を受けたのは、間合いの違いだ。

「練習メニューはグランパスと同じだったから、僕もついていけたんです。でも、ワールドクラスの選手たちと一緒にやってわかったのは、間合いが圧倒的に違うこと。アンリなんか、2mぐらい前から仕掛けてきて、僕はボールを奪うどころか体にすら触れられなかった。一方で、ビエイラは届かないんじゃないかっていうくらい遠くからタックルしてくるんですけど、ガツンとやられる。これはすごいなと」

 練習メニューが同じであることに感じ入った中西は、日本サッカー界のためにこの練習メニューを世に出すことを決意する。

「現役時代、ベンゲルの練習メニューや、彼がミーティングで言ったことを英語ですべてメモしていたんです。自分が将来、指導者になったときに役立てようと思っていたんですけど、2度目にアーセナルを訪ねた際、ベンゲルに『本にして出したい』と言ったんです。そうしたらベンゲルが、『お前が昔、メモを取っていたあれか。それでお前は儲かるのか』と聞いてきたから、『儲かるかどうかはわからない。だけど、日本サッカー界のためになると思う』と答えると、『そうか、それなら出していい』と」

 こうして、ベンゲルのトレーニングメニューをまとめた『ベンゲルノート』が完成し、日本サッカー界のひとつの財産として、広く共有されることとなった。

日本サッカー界に生きるベンゲルのスピリット

 アーセナルにかつての指揮官を訪ねたのは、中西と平野だけではない。

 1998年のシーズン前には、通訳の村上剛に付き添われ、当時20歳の福田健二と19歳だった古賀正紘がアーセナルに短期留学を行なっている。

 また、大岩剛、森山泰行、飯島寿久といったかつての主力選手たちは、S級ライセンス取得のための研修をベンゲルのもとで行なった。現在AC長野パルセイロを率いる浅野哲也は、アビスパ福岡のコーチ時代に同僚とともに練習見学を許された。

 ある日、中西はベンゲルに訊ねたことがある。なぜ、そこまでしてくれるのか、と。

「そうしたらベンゲルは『当然だろう。私はそれだけ日本で多くの人のお世話になったし、日本からたくさんのことを学ばせてもらったんだから』って答えたんです」

 ベンゲルのプロデュースによって1999年10月に落成(らくせい)したクラブハウスには、日本のエッセンスが散りばめられている。クラブハウス正面の人工池は日本庭園を連想させ、クラブハウスは土足厳禁でスリッパに履き替える方式なのだ。

「ベンゲルはすごく義理堅くて、感謝を忘れません。だから、僕もベンゲルから学んだことを日本サッカー界に残したいと思いました。今、久保建英選手をはじめ、いろんな現役の選手たちに無償で技術トレーニングの指導をしているのは、ベンゲルの影響からなんです」

 引退後、すぐに鹿島のコーチングスタッフの一員となった大岩は、指導者の道を歩み始めたことで、あらためてベンゲルのすごさに気づいたという。

「指導者になって実感するのは、伝えることの難しさです。1から10まで伝えたら、選手に響くものがなくなったりします。重要なことをいかにシンプルに伝えるか。ベンゲルはそういうのがうまかった。それに、選手の特長を見抜いて、それをどこで生かすか、という目に長(た)けていましたよね」



ベンゲルに見出され、自らも指揮官となった大岩剛 photo by Murakami Shogo

 そう語る大岩自身がまさに、左サイドバックからセンターバックにコンバートされたことによって、38歳まで現役生活を続けることが可能になったのだ。

「実際にはベンゲルの指導を受けたのはわずか1年半だけです。もちろん当時もすごいと感じていましたけど、本当にすごい監督だったんだなって実感するのは、アーセナルのハード面も選手もすべて変えて、なおかつ結果を出してから。それに、自分が引退して指導者になって、ベンゲルのやってきたことが身に染みてわかるというか……。選手と指導者では立場がまるで違うから、同じ立場になってから、どんどんベンゲルの存在が大きくなっているんですよ」

 小倉は2017年4月、グランパスの幹部とともにアーセナルを訪れた。

 アーセナルの監督に就任して20年目を迎えたベンゲルは、当時、成績不振で周囲から叩かれていた。本拠地エミレーツ・スタジアムのスタンドにも、練習場の入り口にも、「Wenger Out」と記された横断幕が掲げられ、厳しく糾弾されていた。

「ちょっと異様な雰囲気だったけど、そんな状況でもベンゲルは受け入れてくれました。勉強したかったから、俺だけ残って練習や試合を見せてもらったんですけど、また、いつ来てもいいから連絡するように、と言ってくれました」

 小倉にとってベンゲルとの出会いは、自身のサッカー観や、その後の人生を大きく左右するものだった。

「監督でこれだけチームは変わるんだ、っていうのは衝撃的だったし、将来、監督をやりたいな、って意識させてくれたのもベンゲルでした。その前にオランダでプレーしていたけれど、トップのトレーニングや考え方に日本で触れられたのは大きかった。練習に行くのが楽しかったからね。俺は一度、監督としては失敗してしまったけど、コーチの勉強をし直して、もう一度頑張りたいです」

 そう語った小倉は、夏に再びヨーロッパを訪れ、約3カ月間、精力的にヨーロッパのサッカーシーンと指導の現場を見て回った。


ベンゲルを訪ね、再び指導者としての道を歩みだした小倉隆史

 photo by Fujita Masato

 ベンゲルに率いられたグランパスの快進撃から20年以上が経った。

 フィールドを幅広く使い、選手たちが弾かれたように空いたスペースに次々と飛び出していく。選手の個性と組織力が高いレベルで融合し、洗練されたコレクティブでスペクタクルなサッカーは、今なお色あせていない。

 私のスピリットがグランパスに残ることを望んでいる――。

 ベンゲルは退任の挨拶でこう述べたが、それはもちろん簡単なことではない。

「やっぱり監督が変われば、サッカーも変わりますから。ベンゲルのやったことをその後も引き継ぐというのは、難しいと思います」

 そう語るのは、平野である。ドラガン・ストイコビッチが2009年にグランパスの監督に就任した際には、ベンゲルイズムも垣間見られたが、それも一時的なものだった。

 しかし、ベンゲルのスピリットは教え子たちに受け継がれている。

 中西や平野はメディアの世界に身を置いて、ベンゲルから得たものを発信している。鹿島アントラーズの監督に就任した大岩、AC長野パルセイロを率いる浅野は、ベンゲルから学んだことを現場で選手たちに伝えていることだろう。小倉もまた、再びチームを率いる日のために精力的な活動を続けている。

 アーセン・ベンゲルという、ヨーロッパからやってきたひとりの指導者が撒いた種が、日本サッカー界のあちこちで芽吹き、花を咲かせているのだ。

(おわり)