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【短期連載・ベンゲルがいた名古屋グランパス(9)】
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欧州から届いたビッグオファー
最後の采配を終え、手を振ってサポーターに応えるベンゲル
photo by Kyodo News
最初にそれを報じたのは、海外の通信社だった。
イングランド・ロンドンの名門クラブで、”ガナーズ”の愛称で知られるアーセナルが、次期監督候補としてアーセン・ベンゲルをリストアップしたという。監督のブルース・リオホの解任がささやかれており、後任として極東のプロリーグで指揮を執るフランス人監督に白羽の矢が立ったのだ。『中日スポーツ』の木本邦彦が振り返る。
「あれは7月だったかな。当時はインターネットもないから、何がなんだかわからないわけですよ。うちの若い女性記者の両親がたまたまロンドンに住んでいたから、向こうからベンゲルに関する記事をFAXしてもらったんです」
初めて1ステージ制が採用された1996年シーズン、グランパスは3月9日のゼロックス・スーパーカップで前年のJリーグ王者である横浜マリノスを2-0で下すと、リーグ開幕から4連勝を飾り、スタートダッシュに成功する。
アトランタ五輪アジア最終予選に向けた2月のマレーシア合宿で、小倉隆史が右ヒザ後十字靭帯断裂の大ケガを負ってしまったが、習志野高校から加入した福田健二、筑波大学から加入した望月重良と、2人のルーキーがその穴を埋めつつあった。
前半戦の最後となる5月18日の第15節が終わった時点で、グランパスは首位の横浜フリューゲルスと勝ち点6差の6位につけていた。
6月から1カ月間はナビスコカップ(現ルヴァンカップ)が集中開催され、7月3日の試合を最後にオリンピックによる1カ月の中断期間に入った。その時期を利用して、グランパスは北海道の苫小牧でキャンプを張った。
通訳の村上剛がベンゲルに呼び出されたのは、そのキャンプ中のことだった。
「ベンゲルに『強化部長を呼んできてくれないか』と頼まれたんです。『実は、ヨーロッパからオファーが届いているんだ』と。名前は明かしてくれませんでしたが、『自分の名前と似た名前のクラブだ』と言っていました」
それは、すなわちアーセナルだった。
8月に入ると、現地ではベンゲルの就任が決定的と報じられるようになり、ベンゲルは連日のように日本の報道陣に囲まれた。「今はグランパスでの仕事に集中するだけ。未来のことは誰にもわからない」と答え続けていたが、そうした状況が1か月近く続くと、普段は温厚なベンゲルもさすがにキレた。木本が振り返る。
「『今後、この質問には一切答えない』って顔を真っ赤にして怒ったんです。でも、監督によっては平気で嘘をついて、そのときがきたらバイバイっていう人もいるけど、ベンゲルは一度も残るとは言わなかった。本当のことは言えないけど、嘘もつかない。誠実な人なんだなと思いました」
一方、選手たちの気持ちは揺れていた。
「こんなにすごい監督なんだから、仕方ないよなって思いました」と言うのは中西哲生だ。イングランドの名門クラブからオファーがくるなんて、あらためて自分たちのボスがいかに優れているかが証明されて、誇らしい気持ちもあった。
「でも、プレミアリーグは開幕してたんですよ」と振り返ったのは大岩剛(ごう)である。
「シーズンインしたんだから、今年はもう行かないんじゃないか、と思った」
大岩がそう言うように、ベンゲルが去就を明言する前の8月15日、1996‐1997シーズンのプレミアリーグが開幕した。
しかし実は、アーセナルは開幕の5日前にリオホを解任し、代理監督を立ててシーズンを迎えていた。監督の席を空けて、ベンゲルの着任を待っていたのである。
シーズン終了を待たずに訪れた別れのとき
8月末に名古屋グランパスの応援番組に出演したアーセン・ベンゲルは、「たとえ日本を去っても、私はグランパスを愛している。私のスピリットがグランパスに残ることを望んでいる」と、惜別のメッセージとも取れるコメントを発した。
別れのときは、確実に近づいていた。
そして、プレミアリーグの開幕から1カ月が経った9月16日、記者会見が開かれ、ベンゲルが9月28日の柏レイソル戦を最後に退任することが発表された。
アーセナルから監督就任要請のオファーが正式に届いたのは、7月3日のことだった。グランパスの監督就任1年目の1995年から、ベンゲルのもとには欧州のクラブからオファーが届いていたが、グランパスとの2年契約をまっとうすることが優先されてきた。
だが、欧州のビッグクラブで指揮を執ることはベンゲルにとって長年の夢であり、イングランドの名門クラブからのオファーは大きなチャンスだった。また、これ以上要請を断り続けると、欧州に戻るつもりがないと思われかねない。それは、後のキャリアのためにも避けなければならなかった。
「昨年12月までは、しばらく日本にいてもいいと思っていたが、今年6月ごろから考えが変わった。ヨーロッパのハイレベルな戦いのなかで生きていくためには、そこにいなければならない」と語ったベンゲルは、「グランパスでの仕事をまっとうしたかったが、ヨーロッパに戻るなら今しかないと思った」と、欧州復帰を決断したのだった。
あわせて、ニューヨーク・メトロスターズの指揮を執っていたポルトガル人指揮官、カルロス・ケイロスがベンゲルの後任に就くことが発表された。
その会見の2日前、9月14日の第19節が終了した時点で、グランパスは首位の鹿島アントラーズと勝ち点2差の3位。逆転優勝を狙える好位置につけていた。
アーセナルの監督に就任が決まり、地元メディアの取材を受けるベンゲル photo by Getty Images
ベンゲルのラストマッチとなる第21節のレイソル戦以降、11月30日の最終節まで9試合を残すのみ。優勝争いが佳境を迎える時期の指揮官交代が、チームに大きなダメージを与えるのは明らかだった。
チームを去るベンゲルは、「選手たちは精神面で大きく成長し、自信をつけたと思う。今までやってきたことを続けることが必要だ」とメッセージを送った。それだけではない。新監督であるカルロス・ケイロスへの引き継ぎがうまくいくように、自らの右腕であるコーチのボロ・プリモラツを、年内はグランパスに残すことにしたのだ。
「ただ辞めるんじゃなくて、そういう細やかさが最後までありましたね」と、平野孝はしみじみと振り返る。
9月28日、グランパスはベンゲルのラストゲームを勝利で飾ることができなかった。
1-1の同点で延長戦に入った前半3分、相手選手のミスキックとなったセンタリングが、そのままグランパスゴールに飛び込んだのだ。その瞬間、レイソルのVゴール勝ちが決まり、ベンチの前でベンゲルは呆然と立ち尽くしていた。
終幕はあっけなく訪れ、試合後にはベンゲルの退任挨拶が行なわれた。
「みなさん、ありがとう。グランパスのサポーターのことは忘れません。私はいつまでも名古屋のことを愛しています。Thank you very much!」
サポーターに日本語で語りかけたベンゲルは、記者会見で「Good luck! フランス・ワールドカップで会いましょう」という言葉を残すと、翌朝、6時のフライトでロンドンへと旅立っていった。
(つづく)