セリエA日本人選手20年の系譜(2)(1)を読む>>「中田英寿の活躍を見て、多くのクラブチームが”2人目の中田”を狙って日本人を獲得するようになったんだ。例えば、やはり狡猾な会長(イタリアにはこの手合いがたくさん…
セリエA日本人選手20年の系譜(2)
(1)を読む>>
「中田英寿の活躍を見て、多くのクラブチームが”2人目の中田”を狙って日本人を獲得するようになったんだ。例えば、やはり狡猾な会長(イタリアにはこの手合いがたくさんいる)、マウリツィオ・ザンパリーニもガウッチの成功に倣おうとしたひとりだ」
スポーツ紙の記者として長いキャリアを誇るパオロ・フォルコリン氏はこう振り返る。
1999年、ザンパリーニ会長は自分のチーム、ベネチアに名波浩を獲得した。ちなみにこの時の監督はルチアーノ・スパレッティ。現在はインテルの監督を務める名将である。彼はそれまで名波のプレーを見たことはなかったが、その前評判は聞いていたという。
「例えば名波と同じジュビロでプレーしたことのあるサルバトーレ・スキラッチは『彼は素晴らしいアシストで俺に多くのゴールを決めさせてくれたし、そのFKの威力は容赦なく、ジュゼッペ・ジャンニーニを彷彿させた』と言っていた。ザンパリーニ会長も『アルバロイ・レコバと同じ才能の持ち主だ』と絶賛した。
ただ、サポーターの反応だけは悪く、彼らは皮肉っぽく『ベネチアには毎年多くの日本人がやってくる。ひとりぐらいサッカーをさせてやってもまあいいか』などと言っていた。実際に名波のプレーを見たスパレッティは途方に暮れたんじゃないだろうか」
名波は24試合に出場したが、アシストも少なく、ゴールは1点だけだった。シーズン末にベネチアはセリエBに降格し、名波は日本に帰国した。イタリアリーグは彼にとっては最高の経験とはならなかっただろう。
2002年、横浜F・マリノスからレッジーナに移籍した中村俊輔
さて、ここまでは北部と中部イタリアの話だったが、そのうち南イタリアのチームも日本人に注目するようになる。2002年、レッジョ・カラブリアに中村俊輔がやってきた。
「自国開催のW杯には出場できなかったが、それでも彼の左足は素晴らしかった。レッジーナの会長リッロ・フォーティは、『どうしても彼がほしい』と、獲得にまでこぎつけたんだ」
その目論見は大成功だった。特にデビューは鮮烈で、リーグ戦の最初の3試合は連続して得点を重ねた。
「レッジョ・カラブリアの町はこのシュンスケの活躍に狂喜した。彼は一躍町のヒーローになり、自分もサッカーを楽しみ、人々を楽しませた」
ただし、1年目は最高の出来(36試合出場、7ゴール)だったが、その後の2年はケガにも悩まされ、中村の活躍は最初のシーズンほどではなかった。
「その後、彼はセルティックに舞台を移して活躍することになるが、多くのサポーターが彼の移籍を惜しんでいたよ。中村はレッジョ・カラブリアの人たちにとって忘れることのない選手だろう」
中村俊輔の成功の波に乗って、翌2003年には柳沢敦がサンプドリアにやってきた。しかし日本人選手が常にイタリアサッカーと相性が合い、活躍できるわけではなかった。
「柳沢は日本で多くのタイトルを勝ち取った後にイタリアに乗り込んできたわけだが、セリエAでプレーするには、まだ機が熟してなかったようだ」
サンプではどうにか15試合に出場したが、ゴールは全く奪うことができず、1年後にはシチリア島にあるメッシーナに移籍。しかしここでもリーグ戦ではゴールを決めることができなかった。コッパ・イタリアでは1ゴールを決めたが、4-0と圧勝した試合の3ゴール目だった。
それでも、メッシーナはあきらめなかった。2006年、今度は小笠原満男を獲得する。
「しかし彼もまた成功したとは言えなかった。プレーしたのはたった6試合。ただ、2-2で終えたエンポリ戦で1ゴールだけ決めている」
2006年の夏の移籍市場が閉まる最終日、トリノの会長ウルバーノ・カイロはジャンニ・デ・ビアージ監督(のちのアルバニア代表監督)を呼んでこう言った。
「ミステル、私は大黒将志を獲得したよ。嬉しいかね?」
「大黒? いったい誰ですか?」
その4日後、デ・ビアージは解任され、後任にアルベルト・ザッケローニが就いた。しかしザックも翌年2月にはクビになり、契約が残っていたデ・ビアージがまた呼び戻された。
「イタリアのクラブチームの会長は、いつもこんな風なんだよ。チームは低迷していたし、監督も大黒を顧みなかったので、彼に出番はなかなか回ってこない。それにもうひとつ、これは全く大黒のせいではないのだが、彼にはどうしようもできないマイナスの事実があった。それは彼の誕生日が5月4日だったということだ。1949年のまさに5月4日に、かのスペルガの悲劇が起きたんだ」
“スペルガの悲劇”とは、トリノの選手たちが乗る遠征帰りの飛行機が、トリノ目前のスペルガの丘に墜落、選手、コーチ、スタッフ全員が亡くなった大事故のことだ。トリノは当時、セリエA最強を誇り、リーグ連覇をしていたが、この事故以降は弱体化してしまう。5月4日はトリノサポーターには悲しくも忘れ難い日付だったのだ。
「監督に顧みられないばかりか、験(げん)を担ぐサポーターからも嫌われてしまった。こうして大黒は2年間でたった10試合しか使ってもらえず、ゴールもできなかった。イタリアでの冒険は失敗だったというしかない」
2006年にイタリアに来た日本人選手は大黒だけではない。シチリア島のカターニャには未来を嘱望された17歳の若者、森本貴幸がやってきた。
イタリアサッカーに慣れるため、半年ほどユースチームで修行をしたのち、2007年の1月、満を持してアウェーのアタランタ戦でデビュー。83分にピッチに入ると、88分にはセリエA初ゴールを決めてみせた。
「遠征先のベルガモからシチリアに戻って来た森本は、一夜にして英雄になっていた。カターニャの人々は数少ない日本語の知識を駆使して彼を『バンザイ』というニックネームで呼んだり、森本の名前がイタリア語のマリモート(津波)に似ているので、そう呼んだりもしたよ。”日出ずる国のインザーギ”なんて呼び名もあったね」
しかし幸運はそう長くは続かなかった。森本はデビュー1カ月後に十字靭帯を痛め、そのシーズンを終えることになってしまった。それでもカターニャは彼の才能を信じて正式に契約を交わす。
「賢明な選択だったね。森本はケガから復帰すると、信頼に応えて重要なゴールをいくつも決めるようになったんだ。ローマ戦の2ゴール、ユベントス戦のゴール、そしてカターニャサポーターが最も憎むパレルモ相手のシチリアダービーでのゴール。多くのサポーターがこの素朴な青年を愛した」
森本は2011~12シーズンにノヴァーラにレンタルされるが、その後カターニャに復帰し、合計6年半をイタリアで過ごした。当時の監督ヴァルテル・ゼンガも森本を高く評価し、のちに中東のアル・ナスルを率いた際に彼を呼んでいる。
「現在カターニャはセリエCにまで落ちてしまっている。いまだに多くのカターニャサポーターが、セリエAで活躍していた時代とともに森本のことを覚え、懐かしく思っているよ」
(つづく)