いつの時代も、ヒーローは突然現れる――。 馬場雄大(ばば・ゆうだい/アルバルク東京/SF)、22歳。このルーキーに、バスケファンは大きな期待を寄せずにいられない。※ポジションの略称=PG(ポイントガード)、SG(シューティングガード)…

 いつの時代も、ヒーローは突然現れる――。

 馬場雄大(ばば・ゆうだい/アルバルク東京/SF)、22歳。このルーキーに、バスケファンは大きな期待を寄せずにいられない。

※ポジションの略称=PG(ポイントガード)、SG(シューティングガード)、SF(スモールフォワード)、PF(パワーフォワード)、C(センター)。



今季からアルバルク東京でプレーする馬場雄大

 残念ながらケガのために出場は叶わなかったものの、オールスターファン投票では1万1927票で人気選手の田臥勇太(栃木ブレックス/PG)や富樫勇樹(千葉ジェッツ/PG)を押しのけ、堂々の最多投票獲得となった。

「中間発表直後、富樫から『お前、やっちまったぞ。1位だぞ! ルーキーで田臥さん超えかよ!』って連絡がありました」

 ただ、1位に選出されたことに驚きはしたものの、「ファンの期待の大きさをプレッシャーだと感じることはない」と冷静だ。

「ありがたいです。もちろん、もっと成長しなければいけないのは、自分が一番わかってます。投票結果は、期待値込みの結果だと。なので、プレッシャーに感じることも、何かを思うということも、特にはないです。常にコートに立ったら、やるべきことをやるってスタンスでいるんで」

 肩肘は張らない、どこまでも自然体。だからこそ大物感は漂う。オールスターゲームのダンクコンテスト出場も叶わなかったものの、「アイデアは用意していたんです」と、馬場は屈託なく笑った。

「富樫を飛び越えてダンクをしようと思ってました」

 日本代表だった父を持ち、物心ついたころには、父が姉をコーチしているチームの体育館で遊んでいた。

「そのとき、バスケットボールを触った感覚、今も覚えてます。シュートを入れる感覚が気持ちよかった。途中で他の競技をすることも考えたんですけど、行き着くところはバスケでした」

 小学1年で競技をスタートし、初めてダンクできたのは中学3年だった。父と個別練習し、最後に10本ダンクを決めて練習を終わるのが恒例となった。

 馬場のダンクが他の日本人ダンカーのそれと一線を画する理由を、本人が教えてくれた。

「掌(てのひら)があまり大きくないんで、手首に巻き込むように掴んでダンクにいくんです。感覚としてはリングに投げ込むような感じ」

 馬場の最高到達点は350cmを優に超える。さらに「一歩強く踏み込めればダンクできます。ノーマークか密集地帯かは関係ない」とも語る。高くて、強い。馬場のダンクは、まさに規格外だ。

 1976年のモントリオール五輪を最後に、日本代表は五輪から離れている。馬場の父・敏春氏は、1979年に開催されたモスクワ五輪のアジア予選で日本代表としてプレー。中国との決勝戦、日本代表は延長の末、わずか2点だけ及ばず敗れた。

 もちろん、日本はモスクワ五輪をボイコットしたため、勝っていても出場は叶わなかった。それでも、五輪出場に片腕をかけていたと言ってもいいだろう。

「父と東京五輪の話はよくします。『お前はキャリアの一番いいタイミングで五輪を迎えられる。しかも、日本で。恵まれたことだし、この運命を大切にしなさい』と。

 僕はずっと『馬場さんの息子』って言われてきて、最近やっと、父が『馬場くんのお父さん』って言われることが増え始めました。ふたりで話すんです。『完全にひっくり返るのはいつだろうね?』って。父を超えることを目標にずっとやってきたんで、東京五輪に出られたら超えられるかなって思ってます」

 幸運なことに、東京五輪を目前に開花しようとしている才能は馬場だけではない。馬場が富山・奥田中学校の3年時に1年生だった、現在ゴンザガ大で活躍する八村塁(はちむら・るい/SF・PF)も、そのひとりだ。

「今一番、一緒にプレーしたい選手が塁です。連絡も取ってます。『東京五輪で日本代表として一緒にプレーしような』って」

 さらに、馬場の1学年上にいるのが、ジョージ・ワシントン大でプレーする渡邊雄太(SF)。

「東京五輪で3人でプレーするのが楽しみですし、それをモチベーションにしている部分もあります」

 もちろん、もし日本代表が東京五輪に出場できたとしても、レギュラー獲得が安泰ではないことも自覚している。

「代表で僕のポジションはSGだと思ってます。比江島(慎/シーホース三河)さんや(田中)大貴(アルバルク東京)さんとポジション争いをしなければいけない。

 リーグで対戦して、慎さんは他の日本人選手とは違うなって感じました。あの人がスイッチ入ったら、かなり守りづらい。自分のリズムがある人なので、勉強するところが多いです。大貴さんも代表とチームでずっと一緒にプレーさせてもらって、学ぶ部分が多いです」

 ただ、馬場にとっては、東京五輪すら通過点なのかもしれない。

「東京五輪はまだまだ成長の途中だと思うんです。技術が安定してきたらPGにも挑戦できるんじゃないかなと思います。そして五輪で活躍することが、NBAにもつながると信じてます」

 では、これだけの逸材が「なぜ早く海を渡らないのか?」と疑問に思うファンも多いだろう。「そんな声も耳に届きます」と馬場本人も言う。もちろん、進路についてもっとも悩んだのは馬場自身だった。

「高校卒業のタイミングで渡米すべきか迷いました。どのタイミングでアメリカに挑戦するべきか(渡邊)雄太さんにも相談して。

 最近、雄太さんと話をしたら、(相談されたときは渡米)1年目で自分のことで精一杯だったので、僕が相談したときは強く勧められなかった。2年目になって少し余裕ができたから、角野亮伍(すみの・りょうご/サザンニューハンプシャー大/F)には勧められたって。もちろん、最終的に筑波大への進学を決めたのは自分なんで、後悔はしていません」

 もちろん、その選択が正しかったのか迷うことはあった。

「正直、焦ったこともありました。塁と雄太さん、ふたりがアメリカで活躍する姿を見て。明らかにうまくなっているんで。

 でも、アメリカに行っただけでうまくなるんじゃない。それに、アメリカ、アメリカってなると、視野が狭くなる。アメリカに辿り着くだけじゃ意味がない。向こうで活躍することが目標なんで。

 だから、今はもう悩んでないです。焦るのもやめました。実力が伴ってナンボ。そのために、どうやってうまくなるか、1日1日をどう過ごすかしか今は考えません。

 もちろん、アメリカはずっと視野に入れているんで、サマーリーグに参加できるようなチャンスがあれば、必ず参加できるように準備も常にしています。ただ今は、東京五輪のためにも代表を優先。そこで結果を残すことが未来につながっていく」

 今できることを一生懸命。それは、バスケのスキル向上だけではないと、馬場は信じている。

「今季開幕直前に教育実習に行かせていただきました。『絶対に教師にはならないでしょ?』とか『保険?』って言われるんですけど、僕の感覚ではそういうことじゃなくて。国内に残ったからには教員免許を取るって入学時に決めたから、絶対に取ろうと。今できることを全力でやるって決めたんで」

 そして、Bリーグ開幕から3ヵ月、着実に進化している実感もある。

「外角シュートが苦手だったんで、シーズンの最初のころはディフェンスに離されて、『好きに打て!』みたいな感じだったんです。だから練習して克服し、だいぶ落ち着いて決められるようになったんで、今は外のシュートも警戒されます。

 そうなると、シュートフェイクが有効になるんで、攻めやすくなりましたね。シーズン後半戦は、得点はもちろんですけど、ドライブで抜いた後のディフェンスの状況を正確に判断して、アシストも増やしていきたい」

 国内にとどまったことが、回り道だったのか、結果として近道だったのか、馬場は自身のキャリアで証明していくつもりだ。

 漠然とした質問だが、もしも選手としての完成形があるのなら、現状をどのレベルだと本人は思っているのか聞いた。

「どうなんすかねえ。40パーセントくらいじゃないですか。まだまだ伸びると信じてます。もっともっと、うまくなれる。何より今、バスケが楽しいです。最近、さらに楽しくなってきました。うまくなっている実感があって、今までできなかったことができるようになっている。レベルが高い選手に囲まれ、『どうしたらいいんだ』って考えることも楽しいです」

 44年もの間、閉ざされた五輪出場の扉をこじ開けることは容易ではない。それでも、馬場ならばと期待してしまう。思わず、「東京五輪へ、日本を連れていってください」と、質問ではなく願望があふれた。馬場は、週刊少年ジャンプの主人公のような表情で即答した。

「そのつもりです」

 きっと、東京五輪の先に見える道は、NBAという舞台に続いている。

 ルーキー馬場雄大。みんなの期待に応えるのがヒーローならば、その期待を超えるのがスーパーヒーローだ。