行けるときにプロへ進むべきか。それとも、大学や社会人野球で力をつけてからプロに行くべきか。高校生のドラフト候補は大きく分けて、このどちらかの選択を迫られる。もちろん、どちらが正解というのではない。ただ高校生のドラフト候補の場合、体力的…

 行けるときにプロへ進むべきか。それとも、大学や社会人野球で力をつけてからプロに行くべきか。高校生のドラフト候補は大きく分けて、このどちらかの選択を迫られる。もちろん、どちらが正解というのではない。ただ高校生のドラフト候補の場合、体力的にも技術的にも発展途上の選手が多く、進む道を間違ってしまったがために才能を発揮できぬまま野球界を去った者も少なくない。今回、高卒から下位指名、もしくは育成選手としてプロに入ったものの、若くして戦力外通告を受け、トライアウトに挑戦した3人の選手を追った。はたして、彼らの選択は正しかったのだろうか……。



育成選手として中日に入団し、2016年オフに支配下選手となった岸本淳希

 2013年の育成ドラフト1位で岸本淳希は中日から指名を受けた。敦賀気比高(福井)時代はエースを務め、3年春のセンバツでベスト4入りを果たした。全国の舞台で実績を残したものの、制球面での不安を拭えず、本指名にはいたらなかった。

「とにかくプロに行きたいという気持ちが強かった」と、岸本は育成指名の評価にためらうことなく、プロの世界へ飛び込んだ。

 1年目のシーズン後半にはファームの抑えに定着し、チーム最多セーブを記録。2年目には育成選手ながらファームでチーム最多登板を果たすなど、経験を積んだ。

 3年目の2016年は四国アイランドリーグplusの香川オリーブガイナーズに派遣選手としてプレー。”独立リーガー”たちとともに汗を流した。

「もちろんNPBの試合で結果を出してアピールするのが一番ですけど、登板機会も多くいただきましたし、独立リーグの選手たちと過ごすなかで刺激もたくさんもらいました。自分にとって間違いなく無駄ではない、成長につながる時間でした」

 そう断言できる充実した時間を過ごし、研鑽(けんさん)を続けてきた岸本はその年のオフ、念願の支配下登録を勝ち取った。

 2ケタの背番号を手にし、満を持して臨んだ4年目の今季だったが、一軍昇格はならず。シーズン終了後に「あるかもしれないと、警戒はしていました」という戦力外通告を言い渡され、今回のトライアウトに挑むこととなった。

「背番号59は支配下登録のときに自ら選んだ番号なんですが、一軍のマウンドを見せてやれず、かわいそうなことをしてしまった。(トライアウトの)会場が一軍の試合で使う球場だったので気合いが入りました」

 気合い十分で臨んだマウンドで2つの三振を奪い、許した安打も内野安打の1本のみ。最速145キロをマークし、本人も「球速以上にボールが走っている感覚があった」と手応えを口にした。

 話題がドラフト当時のことに及ぶと、岸本は言葉を選びながらこう答えた。

「いま思うと『将来的に上位で』と、進学するのもひとつの手段だなと思います。だけど、当時は『プロに行きたい』という気持ちばかりで、それ以外の選択肢は考えられなかった。考える力がなかった……といえるかもしれませんね。今回、戦力外になりましたけど、高卒の育成選手としてプロの世界に飛び込んだことに後悔はまったくありません」

 現在21歳。「ケガもないし、体もバリバリ動く」と吉報を心待ちにしている。



大谷翔平と同期入団の宇佐美塁大

 2012年にドラフト4位で日本ハムから指名を受けた宇佐美塁大(うさみ・るいた)。同期入団で1位指名の二刀流・大谷翔平が”左のスラッガー”ならば、”右の大砲”候補がこの宇佐美だった。

 広島工高時代は通算45本塁打を放ち、高校3年の夏には甲子園出場を果たした。プロ1年目は内野手の守備面で壁にぶち当たったものの、外野手にコンバートされた2年目以降はその不安も解消。プロ5年目となる今季も、ファームで10本塁打を放つなどアピールを続けたが、層の厚い一軍の外野陣に割って入ることはかなわなかった。

 実は今回、宇佐美はトライアウトを「最初は受けないつもりだった」という。その心境に変化をもたらしたのは何だったのか。

「(二軍本拠地の)鎌ヶ谷のファンの方々から『まだまだ野球を続けてほしい。あきらめないでほしい』という言葉をたくさんいただきました。それに(1年先輩にあたる)松本剛さんと食事に行ったときに『オレだって一軍に定着できたのは6年目。これからだぞ』という話もしていただいて……」

 さらには、高校時代にプレーしたこともある地元・マツダスタジアムが会場だったこともあり、「お世話になった方々に地元でプレーする姿を見せたい」と参加を決意した。

「嫌な緊張感もなく、前日からワクワクしていた」というトライアウトでは、左中間スタンドに飛び込む本塁打を放ち、スタンドから割れんばかりの大声援を送られていた。

「とにかく楽しかったです。高校のときもマツダスタジアムで試合をさせてもらって、そのときも左中間に飛ばしたんですけど、フェンスを越えられなかった。でも今日は同じ方向に本塁打を打つことができて、『この5年間で成長できたんだ』って思えました。本当に参加してよかったです」

 プロとして5シーズンを終えた23歳。今年プロ入りした大卒ルーキーたちと同じ年齢にあたる。「大学や社会人に進んでいたら……」と考えることはなかったかと尋ねると、間髪入れずにこう返ってきた。

「それは思わなかったです。高校時代に(プロのスカウトに)見出していただいたからこそ、プロに入ることができた。大学に進んでいたら埋もれていたかもしれないですし、野球をやめていたかもしれない。自分の選択に後悔はまったくありません」



プロ入団後、ケガに泣かされ続けた東方伸友

 今回トライアウトの”大トリ”でマウンドに上がったのが、2013年にソフトバンクから育成ドラフト2位で指名されて入団した東方伸友(とうぼう・しんすけ)だ。192センチの長身で浜田商(島根)時代は”山陰のダルビッシュ”と呼ばれ、将来性を買われての指名だった。

 しかしながら、東方のプロ生活はケガとの戦いだった。1年目の9月に受けたトミー・ジョン手術を皮切りに、在籍4年間で3度も商売道具の右ヒジにメスを入れた。

 リハビリによる出遅れなども重なり、12球団トップとも称される巨大戦力のなかで存在感を放つことはかなわなかった。入団4年目の今季は三軍戦で4試合だけの登板にとどまった。

「悔しさしかなかった」というプロ生活への思いを胸に臨んだトライアウトでは、1安打を許したものの3つの三振を奪うなど、上々の結果を残した。

「ケガとか苦しいことの方が多かったですけど、高校からプロに入ったことに後悔はないですよ」

 清々しい表情で球場をあとにした東方。今後については「まだ考え中」だという。

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 20代前半という若さで厳しい現実を突きつけられた3人の選手たち。「高卒でプロに進んだことに後悔はない」と力強く語る姿には、熾烈な競争のなかで戦い続けた”プロ”としての矜持(きょうじ)がにじみ出ていた。

 まだ何も残せていない――様々な思いを胸に秘めた若者たちは、活躍の場を渇望(かつぼう)している。