<寺尾で候>日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。   ◇   ◇   …

<寺尾で候>

日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。

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真冬のパリ。日中の鉛色の空は、夕闇が迫ると一斉にイリュミネーションが点灯し、街中が華やかに。そのギャップによって、芸術の都はクリスマスムード一色に染まっていく。

2月3日に死去した阪神初代日本一監督、フランス代表監督も務めた吉田義男が着用したユニホームなど、ゆかりの品の返還式が、市内の仏野球ソフトボール連盟で執り行われた。

1989年から95年まで7シーズンにナショナルチームを率い、同連盟の名誉会員だった吉田の通夜・告別式に、会長のディディエ・セミネは1泊2日で来日し、故人の亡きがらと対面していた。

「日本式のお葬式を経験するのは初めてで、お棺にいろいろ品物を入れたのには驚きました。最初は外国人のわたしたちがお葬式に出席するのをためらったんです。でも式場でユニホームなどフランス時代の品々が飾ってあるのを見て、わたしたちもふさわしくない人間でないんだと気づかされた。それはいかにムッシュ吉田がフランス野球に貢献したかを物語っていました」

“牛若丸”と称されたスターで、監督として日本一まで上り詰めた男が、野球が根付いていない国に単身渡仏して指導するのは奇異に映ったはずだ。劇的な優勝から2年後、最下位転落の傷心を癒やしたのが、異国の地だった。

世界約30カ国・地域で采配をとった。アパート生活、遠征先では缶詰暮らしも味わった。バントを命じると「なぜ、おれが犠牲にならないといけないの?」と詰め寄られ、技術どころか、文化の違いに戸惑った。

それでも吉田は「君たちの英雄ナポレオンさんは『我が輩に不可能の文字なない』と言うたやろ。いつかパリに野球の花を咲かせようやないか」と教え子たちを引っ張るのだった。

セミネ会長は「おかげさまでフランス野球は上昇気流です」と打ち明ける。現在は1部(8チーム)、2部(8チーム)、地域リーグ(16チーム)の計32チームで構成。ナイター設備のある球場で年間約40試合を開催。野球人口は1万5000人に倍増した。

「フランスは欧州でも国土面積が2番目に広いので移動も大変です。ローカルクラブから野球をしたいという提案を受けると、地元地自体に施設作りなど運営面の協力を得るためのお願いに行くんです」

ドジャース守護神で、サイ・ヤング賞男のエリック・ガニエ氏を仏代表監督に起用するなど力を入れてきた。新監督と布陣は、来年4月をメドに固まる予定だが「メジャー選手がいるオランダ、イタリア、イスラエルは強い」と実力差は否めない。

しかし、現在はフランス出身者で、レッズ、ブルワーズのマイナーでプレーしている選手もいる。メジャーから“ファイン・アート”と絶賛され、華麗な守備力を誇った吉田は「フランスから大リーガーが誕生するのが見たい」と夢を語り続けた。

教え子でショートを守ったダビッドの息子は、米アリゾナ州立大学で、来年のMLBドラフトの有力候補だ。ポジションも同じ遊撃手で、恩師の吉田が育てた親子鷹が実現するかもしれない。

功績をたたえて14年にスタートした国際大会「吉田チャレンジ」は、27年に開催される運び。翌28年ロサンゼルス五輪に出場権のかかった欧州選手権の弾みにしたい。

吉田と一緒に撮った写真がある。19年にフランスの魂だったノートルダム大聖堂が火災し、尖塔(せんとう)が崩れ落ちた衝撃的な光景は、世界中に生中継された。その直後に渡仏した際のショットだ。今回その近くのセーヌ川沿いを歩いた。大改修を経た希望の象徴は見事に復活していた。

セミネは「安芸キャンプでクジラを食べさせていただいて、露天風呂にも入った。城島の打球音には驚きましたが、曙にもびっくりでした。新たなプロジェクトを話し合うとき、吉田の名前が出ないことはない。改めて彼が残したものを考える機会になった。そのスプリットは永遠に受け継がれます」とイズムを強調する。

「オペラ通りを歩いた先の交差点で待ってまっせ」。拙者はまだ日本をたつ前にもかかわらず待ち合わせ場所と時間を指定してきた。ムッシュ吉田の「第2の故郷」での思い出は尽きることがない。深く心に刻んだ“フランス野球の父”を追悼する巡礼の旅になった。(敬称略)