出会いは2012年。オリックスの沖縄・宮古島キャンプ初日だった。「おう、よろしくな」。高代さんの返答は、ドスの利いた低…
出会いは2012年。オリックスの沖縄・宮古島キャンプ初日だった。「おう、よろしくな」。高代さんの返答は、ドスの利いた低い声で一言。右手を差し出され、若輩の私は焦って差し出した手を強く握られた。数え切れないほどのノックを打ってきた名参謀の手は分厚かった。
公称は身長170センチ。実際はもっと小柄だが、独特の貫禄があった。グラウンドでは眉間にしわを寄せていた印象が強く残る。選手と一線を引き、基本を徹底する指導は厳しかった。報道陣には近寄りがたい雰囲気を醸し出し、息子ほど年齢が離れた私には、気難しい人にしか見えなかった。
当時の岡田監督との食事で同席する機会が増え、印象は一変する。阪神コーチ時代は春季キャンプ中は、沖縄県うるま市にあるなじみの“場末のスナック”が行きつけだった。カラオケで持ち歌が流れると、一人で店の奥へ。両手の指の間に皿を2枚ずつ挟んで登場すると、音を鳴らしながら踊って場を盛り上げた。
マイクを握れば、少年隊の「仮面舞踏会」を熱唱し、嘉門タツオが「なごり雪」を替え歌にした「なごり寿司」も持ちネタ。頭の回転が速く、ジョークを飛ばしたり、突っ込んだり…。ユニホームを脱げば、エンターテイナーだった。
ただ、酔うといつも本音が漏れた。
「選手は俺のことが嫌いやろうなあ。でも、俺も人間やで。選手に嫌われたくなんかないで。こういう性格やし、選手と一緒に飲んで騒ぎたいよ。愚痴の一つでも聞いてやりたいで。でも、あいつらは生活がかかっとる。なれ合いはあかん。一線を引いておかんと」
そのルーツは広島コーチ時代に仕えた三村敏之監督だったという。「ミム(三村)さんは、カネ(金本知憲氏)に『アホ、ボケ』ばっかり言うんよ。練習もきついしね。ほんまかわいそうやったで。でも、裏に行ったら、俺に『あれはモノになる。ちゃんと最後まで見といてやってな』って言うんよ」。厳しい指導は選手への愛情の示し方でもあると知った。
金本氏を指導したことは、高代さんにとっても財産だった。ある試合で金本氏が左投手の内角球に逃げるようなしぐさを見せたことがあった。
その姿を三村監督に責(しっせき)された金本氏は後日、左投げの打撃投手が投げる球をエルボーガードも付けず、延々と右肘に当てていたという。「あれは忘れられん。涙が出たわ。あれだけ頑張れる選手はおらんよ」。勝負の世界で生き抜こうとする選手には本気で向き合った。
のちに金本氏が恩師3人の中に高代さんの名前を挙げると、「耳を疑ったわ。ほんまかいなと思って」。目尻を下げ、歩んできた道を誇らしく感じていた。
名ノッカー、三塁ベースコーチとして名をはせ、NPB6球団を渡り歩いた。星野仙一、落合博満、岡田彰布と数々の名監督にも仕えた。第2回WBCではコーチとして大会連覇にも貢献した。
それでも、ひそかに描き続けた夢もあった。
「一回でええから、プロ野球の監督をしてみたかったな」
23年1月からは関西六大学野球リーグの大経大野球部の監督に就任。「教えることばっかりで大変やで」。舞台は違えど、うれしそうだった。
だが、“第二の人生”が始まった直後に病魔に襲われた。23年4月末にノックを打っている時に異変を感じた。ステージ4の食道がんだった。
24年6月には自らふさふさだったシルバーヘアーから丸刈りにした。頭をなでながら「似合うやろ」。この頃には眉間ではなく、目尻のしわが深くなっていた。
私は高代さんが10月に大阪市内の病院へ転院してから何度も見舞いへ行った。同11日には親族の理解もあり、病室で約30分も2人きりで過ごさせてもらった。ベッドの横にあるテレビ画面には、メジャーリーグのポストシーズンが映っていた。
「もうちょっと野球がしたかったなあ」
最後に会ったのは12月1日。病室に入った時に高代さんは寝ていたが、ベッドの横に立っていると目が開いた。だが、意識はもうろうとしていた。病室を出る前、最後にかけられた言葉は「ありがとう」。かすれた小声だった。それでも最後に交わした握手は力強かった。出会った日と同じように分厚い手だった。(デイリースポーツ・西岡誠)