阪神が4日から、甲子園歴史館で「藤村富美男監督退陣要求書」の一般公開を開始した。1956年(昭31)11月20日に、当時…

阪神が4日から、甲子園歴史館で「藤村富美男監督退陣要求書」の一般公開を開始した。1956年(昭31)11月20日に、当時の阪神監督だった藤村富美男氏に対し、主力の金田正泰氏を中心とした選手らが解任を求めた連判状で、12人の母印が押されている。今年の球団創設90周年に際し、史実に学ぶ意味も込めて初公開に至った。

◆藤村富美男監督排斥事件の背景

阪神90年の歴史で「最大のお家騒動」とされる。人望の厚かった松木謙治郎監督が1954年限りで辞任。野田誠三オーナーがプロ経験のない岸一郎を監督に任命した。起用方針などを巡って主力らの反発を招き、1年目(55年)の途中に休養。初代ミスタータイガースの藤村が選手兼任で代理監督に就いた。翌56年には正監督に就任した。

だがベテラン金田正泰、田宮謙次郎らは藤村監督に不満の矛先を向け、シーズン中から不穏なムードが漂うように。オフに入り、待遇面でも不満が爆発した。

11月上旬、金田の自宅に選手が集まり、藤村監督の退陣要求書を作成。吉田義男、小山正明ら若手も巻き込んだ計12選手の連名で、11月20日付で野田誠三オーナーに提出した。

12月4日、球団は監督続投と金田の解雇を発表。排斥派はさらに反発を強めたが、12月25日に金田との再契約が発表されたことで態度を軟化。藤村監督の続投をのんで、52日間にわたる抗争は収束した。

翌57年は優勝争いを繰り広げたが、藤村監督は同年限りで解任された。求心力を案じていた球団は、開幕前から水面下で監督交代を進めていたことが分かっている。この一件で阪神はトラブルの多い球団というイメージがついた。のちに吉田は「若手に藤村さんを批判する気持ちはなかった。でも主力についていかざるを得ない状況だった。まだ組織も未熟な時代だった」と述懐した。