<寺尾で候>日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。 ◇ ◇ …
<寺尾で候>
日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。
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野球界で“国宝級”の評価を受ける長嶋茂雄については、これまで同じような逸話が繰り返し語られてきている。ここでは立教大の同期、チームメートで、刎頸(ふんけい)の友だった、南海ホークスのエース杉浦忠との固い友情について、初公開で秘蔵の証拠資料とともに触れてみたい。
2010年(平22)12月25日、クリスマスの夜。堺市にあった杉浦の自宅から出火し、木造2階建ての住居が全焼した。すでに01年に杉浦本人は死去していたが、妻・志摩子は救急車で搬送されて無事だった。当時、志摩子は西堺署に「1階和室で灯油ストーブに給油した際、引火した」と話している。
あれから15年間の月日が流れた。今年6月3日に長嶋が泉下の人になった際に、真っ先に思い出したのが、その和室にあった仏壇の左横に大事そうに飾られた1枚の色紙のことだ。それは長嶋が親友・杉浦だけにしたためたものだった。
「あの頃はスギもボクも野球のことばかり考えていた 長嶋茂雄」
あの色紙が脳裏から消えなかった拙者は、ある人物を介し、球史に残るピッチャーだった杉浦の身内に接触を試みた。志摩子が天国に旅立ったのは聞いていた(19年1月19日没)。すでに引っ越したが、閑静な住宅街にある一軒家で対応してくれたのは、杉浦の次女・慶子と三女・加容子(かよこ)だった。
残念ながら実家が消失したと同時に、数々のトロフィー、記念品などはすべて焼けてしまったと聞かされた。そして、あの色紙も燃えて無くなったと聞いてがくぜんとした。だが「実は…」と切り出した慶子が持ち出してくれたのは、隣にあったガレージから発見された遺品だった。
それが生前の杉浦が大学時代にこまめにつけた「日記」と「アルバム」だ。そこには杉浦が、いかなる経緯で南海入りを決めたかが、その理由とともに如実に示されている。またそこには長嶋の存在が絡んだこともはっきりと記されていた。
愛知・挙母(ころも)高から立大に進学した杉浦は、下手投げにフォーム改造して頭角を現す。長嶋、本屋敷錦吾と“立大三羽がらす”と称され、4年時は東京6大学リーグで春夏連覇を果たした。
南海の名将、鶴岡一人は立大卒で外野手だった大沢啓二を使者にし、長嶋に小遣いを渡しながらアプローチをはかる。当時はドラフト制度がない自由競争の時代。長嶋が南海入りに傾いたことは知られるが、杉浦は同じ恩恵を受けながらお金に手をつけなかったという。
初めて明るみに出た日記から分かるのは、最初に杉浦がプロ野球界の行き先として候補にしたのは「南海、中日、阪急」の3球団だったことだ。そこにどこからともなく途中から「巨人」が割り込んできたことが判明。順を追ってくと「巨人・南海」の二者択一の状況後、いったんは「巨人」に絞ったと思われる。だが迷いに迷った末に「南海」を決断したということになる。
今回の複数の資料を総合すると、長嶋と杉浦が同時に巨人入りした可能性もあったことが分かった。しかし南海入りが確実だった長嶋が巨人に翻って、杉浦は南海入りした。「シゲ」「スギ」と呼び合った2人はたもとを分かつのだった。
そのときの心境を、杉浦は日記の中で切々と綴っていた。大学時代に出会った後で結ばれる志摩子は、東京・本郷の料亭「百万石」の娘。長嶋と巨人に行けば彼女と一緒に住むことができる。だが西の名門南海の大監督、“鶴岡親分”への義理も欠きたくない。その狭間で揺れた心境を「生まれ変わったらサムライになりたい」と言ってはばからなかった杉浦が切々と書き下ろすのだ。
「長嶋が可哀想だ。ボクが行かなかったら、長嶋が何て言われるか知れない。只それだけだ。長嶋が大選手になってくれたら良い。ボクも勿論やる。長嶋と一騎打ちをやって見たい。ボクも東京に居たかった。志摩子も居る事だし。なんだ…、俺は志摩子に惚れたんだろうか? 彼女と一緒に星を観て南海に決めたっけ…」
杉浦には長嶋と同じチームで一緒に戦いたい気持ちが隠れていたのだろう。またそこには志摩子への淡い恋心が絡み合った。長嶋と杉浦。「球界の紳士」とうたわれ、ロマンチストだった名投手は、今頃、あの世でかけがえのない親友と酒でも酌み交わしているに違いない。(敬称略)