<国際親善試合:日本-ボリビア>◇18日◇東京・国立競技場日本代表の森保一監督(57)は25年最後の代表活動中、恩師との…
<国際親善試合:日本-ボリビア>◇18日◇東京・国立競技場
日本代表の森保一監督(57)は25年最後の代表活動中、恩師との別れがあった。長崎日大高の監督だった下田規貴(きよし)さん。14日のガーナ戦前に78歳で亡くなった。指揮官は18日のボリビア戦の前日会見で数々の教えを受けた人の死去を明かし、涙した。サッカー人・森保一にとってどんな人物だったのか-。
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「今の私がある大きな存在」。森保監督は日本代表史上初の100試合目の指揮を迎えるにあたり、前日の会見でこう口にした。
その人とは下田規貴(きよし)先生。長崎日大高サッカー部時代の監督だ。「高校時代を振り返った時に本当にダメダメ人間で、何をやっても半人前だった」。サッカーを辞めようとしたこともあった。切れかかった気持ちをつなぎ留めたのは下田先生だった。「そのご恩は一生忘れない」。涙をこらえながら話した。
その恩師、下田先生が14日のガーナ戦の前に亡くなった。「厳しくも愛情深い先生でした。一時期サッカー部を休んでいた森保を、先生が家まで行って引っ張ってきたこともありました」。こう話してくれたのは、森保監督の高校時代の同期で主将だった山口洋介さん。「きつい練習でした。試合に負けた後とか走らされたり、というのはよくありました」。中京大卒の体育教員。サッカー経験はなく陸上部だという。だが情熱は人一倍旺盛だった。
県内に小嶺忠敏監督の国見や島原商という全国的な強豪がいる中、追いつけ追い越せと猛練習で力を付けた。その熱血指導ぶりを山口さんが述懐する。「夜も車のライトを照らして練習した」。その負けん気が成長につながり、国見と対等に戦えるまで強くなった。「そういう指導があったからこそ、今のそれぞれの人生に生きているんじゃないですか」。その中でも森保監督は人一倍戦っていたという。「取られたら取り返す、そういう気持ちがすごく前に出てくる選手だった。一生懸命プレーする姿をみんなに見せて。私らも森保の姿勢を見たら頑張らずにはいられなかった」。
当時の部員は3学年合わせても30~40人。下田先生は、みな平等に目をかけてくれたという。卒業してからも教え子たちを思い、よく連絡を取っていた。山口さんも亡くなる1週間前に連絡をもらっている。「森保の試合はよく見に行っとるんですよ。先月のブラジル戦も東京まで行ってました。逆転勝ちしたいい試合を最期に見られて良かったんじゃないかと、みんなで言いましたね」。
そしてガーナ戦、テレビに映し出された森保監督の姿に山口さんは感じるものがあった。「天を見上げててから、何か試合に挑んだような感じだった。そこは先生が亡くなったのを聞いてからだったと思うので」。未熟な高校時代の3年間とは、少しの迷いが人生の行き先を変える。そこで真摯(しんし)に向き合い、導いてくれた下田先生への感謝の念は誰しも尽きない。
先生、ありがとう-。百戦錬磨の指揮官は人生の原点に立ち返り、再び未来へと突き進む。【佐藤隆志】