<寺尾で候>日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。 ◇ ◇…
<寺尾で候>
日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。
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博多随一の歓楽街・中州でNO・1のクラブのママは、各界の一流と付き合いながら修羅場をくぐってきた百戦錬磨だ。人生経験が抱負で、人を見抜く眼力は正鵠(せいこく)を得ている。
今週も平日というのに、店の前に5、6人の秘書が立って、自社のトップが出てくるのを待ち構える繁盛ぶりに出くわした。オーナーママとホークスの日本一に触れながら、リーダーの条件を聞かされた。
「わたしは夏目漱石の『草枕』の冒頭を参考にしています。『山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい』。自分の考え、トップのビジョンを的確に伝え、それを社員に浸透させるには深い人間力が必要と思っています。情と理。リーダーには“決断力”が不可欠でしょうね」
阪神との日本シリーズを制したソフトバンク監督・小久保裕紀のベンチワークは機を見て敏だった。日本ハムなど他球団から引き抜いた大型補強が結実したチームは、敵将を采配力で上回った。
現役時代の実績はケチのつけようがないのに、前々から監督候補とささやかれ、その名は浮上しては消滅した。満を持しての“登板”になった小久保を博多に導いた人物と語り合うのは久しぶりだ。
1993年(平5)のドラフトで青学からダイエー入り。当時の担当スカウトが石川晃だった。球界を代表する選手になった井口資仁、松中信彦、和田毅、山田秋親らをスカウティングした実績の持ち主だ。
南海ホークスからたたき上げの石川は、初代球団社長・鵜木洋二の後ろ盾でのし上がった。“球界の寝業師”の異名をとり、当時専務取締役兼監督・根本陸夫のもとで力を発揮する。その“傑作”の1つが、ダイエー小久保誕生だ。
「自分が苦労して獲得した選手ですから、監督に就いて日本一になったのは本当にうれしいです。当時は中内オーナーから絶対的指令が下ったのですが、ほぼ巨人入りが決まっている状況でした。しかも、うちには小久保につながる人脈もなかったんです」
その年は、大学・社会人の1、2位の指名選手に限って、逆指名権が与えられた新ドラフトの初年度だった。ダイエーのカリスマ経営者、中内功からの厳しい申し付けに、球団内部は慌てた。
そこで名乗り出たのが北海道・東北担当で、青学の東都リーグはエリア外、小久保サイドと縁の薄い石川だった。「今思えば、わたしも若かったです」。特命を受けた石川は水面下でうごめいた。
小久保は幼少期から母親の女手ひとつで育った。ただルール上は“事前交渉”を許されたが、どこをつついても「巨人・小久保」は動かない。総帥の中内から「小久保を獲らなかったらクビにする」とまで言い切られて切羽詰まった。
ある日、石川が付き合いのあった球界関係者から紹介されたA氏という人物にたどり着く。そこでも巨人優勢が変わらなかった。石川は「やっぱりダメか…」とため息をついた。その時だ。A氏のほうから持ちかけられた。
「ひっくり返してやるぞ…」
石川の胸に、強烈な一言が突き刺さった。巨人入りをひっくり返すことができるかもしれない。「この人を信用しよう。『お願いします』と答えました」。その瞬間を契機に、石川は小久保のダイエー入りに成功を収める。
しかも、ダイエーのドラフト1位は渡辺秀一(神奈川大)、小久保を2位で指名するミラクルだった。あれから32年の歳月が流れた。石川は日本ハム、ロッテを経て、現在は実業家として活躍している。
「もともと小久保はチームをまとめ、リーダーシップがとれる男でした。協調性もあるし、読書好き、言葉力をもっています。ちょっと人を信用しすぎるところはありますが、本人は人への思いやりがあって、チャラチャラしていない一本気です。見事な勝利だったと思います」
そして、感慨深げな石川に、伝説になった根本陸夫という男の存在について聞いてみた。「師匠であり、ライバルでもありました」。その話をすると長くなるからまたにしましょうと約束を交わした。(敬称略)