【第20回】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」 IWA世界ヘビー級王座から転落したものの、マイティ井上はタッグ王者として国際プロレスで大いに輝きを放つことになる。そのベストパートナーとして井上が名を挙げたのは、「アニマル浜口…

【第20回】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」

 IWA世界ヘビー級王座から転落したものの、マイティ井上はタッグ王者として国際プロレスで大いに輝きを放つことになる。そのベストパートナーとして井上が名を挙げたのは、「アニマル浜口」。ふたりはIWA世界タッグ王座に何度も輝き、国際プロレスで一世を風靡した。だが、そんな息の合ったコンビも、国際プロレス解散とともに、別々の道を歩むこととなる――。

「国際プロレスとはなんだ?」前回コラムはこちら>>>

連載第1回目から読む>>>



IWA世界タッグ王座にも輝いたアニマル浜口(一番左)とマイティ井上(左から2番目)

マットの魔術師・マイティ井上(4)

 マイティ井上がマッドドッグ・バションに敗れた9日後、次は俺だとばかりに立ち上がったのはラッシャー木村だった。4月19日、北海道・札幌中島スポーツセンターで行なわれた金網デスマッチ時間無制限1本勝負は激闘の末、逆エビ固めで木村がバションを撃破。IWA世界ヘビー級第11代チャンピオンとなった。

 その後、井上はエースの座に就いた木村に何度も挑戦する。

 前にも触れたが、国際プロレスは1973年、IWA世界ヘビー級チャンピオンのストロング小林にラッシャー木村が挑む「同門対決」を実現していた。だが、木村に対してはグレート草津やアニマル浜口、寺西勇、阿修羅・原も挑戦しておらず、ひときわ異彩を放つ井上の下剋上魂は多くのファンから支持された。

 また、マイティ井上はグレート草津、アニマル浜口、阿修羅・原と次々とパートナーを代えながら、IWA世界タッグチャンピオンにもなっている。

 なかでも浜口とのタッグでは、1977年11月6日、東京・後楽園ホールで全日本プロレスから参戦してきたグレート小鹿・大熊元司の「極道コンビ」からアジアタッグ王座を奪取。さらに1979年2月23日の千葉・千葉公園体育館では、グレート草津・アニマル浜口組が奪われたIWA世界タッグ王座を、山本小鉄・星野勘太郎の「ヤマハ・ブラザーズ」から井上・浜口組が奪い返した。

「和製ハイフライヤーズ」「浪速ブラザーズ」の愛称で親しまれ、一世を風靡したマイティ井上・アニマル浜口組はIWA世界タッグ王座を2度獲得。同王座の最多記録となる通算16度の防衛をマークしている。

 マイティ井上は「タッグパートナーとしてベストはアニマル浜口。彼は俺と同じでガンガンいくから、組んでいてやりやすかったよね」と認める一方、浜口もまた「井上さんと組むと試合がしやすかった」と感謝している。

「僕はただ暴れるだけでしたが、井上さんがいろいろ考えてくれて、好きなようにやらせてくれました。本当にありがたかったですね。

『タッグ』というのは助け合うというより、組んだ者のいいところを出してあげないといけない。だから、1+1が2でなく、3にも4にも5にもなる。そういう意味でも、井上さんは最高のレスラーでした。

 それとタッグで試合中、戦っていないときはリングのロープの外、一番いいところで観させてもらっているわけですからね。井上さんと組んで、実に多くのことを学ばせてもらいました」

 1981年8月9日、国際プロレス最後の興行となった北海道・羅臼(らうす)小学校グラウンド大会。アニマル浜口は長期欠場中だったが、マイティ井上はラッシャー木村とタッグを組み、セミファイナルに登場。ジプシー・ジョー&ジェリー・オーティス(ジェリー・オーツ)を相手に有終の美を飾った。

 国際プロレス崩壊後、吉原(功/よしはら・いさお)社長の意向を受け、ラッシャー木村、寺西勇、アニマル浜口は戦いの場を新日本プロレスとしたが、マイティ井上は本人曰く「初めて吉原さんに逆らい」、冬木弘道、菅原伸義、阿修羅・原とともに全日本プロレスへ移籍する。

 全日本ではNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級チャンピオンや、阿修羅・原らと組んでアジア・タッグチャンピオンになるとともに、国際プロレス時代に流血試合で因縁の相手だったジプシー・ジョーとふたたび抗争。さらに渕正信(ふち・まさのぶ)、永源遥(えいげん・はるか)と「悪役商会」を組んで、ジャイアント馬場の率いる「ファミリー軍団」と戦い、「ファミ悪決戦」という愛称で人気を集めた。

 そして1998年6月、現役を引退。レフェリーに転向し、2000年から2009年まではプロレスリング・ノアでもレフェリーを続けていたが、2010年5月22日のノア後楽園ホール大会「マイティ井上レフェリー引退記念興行」を最後にプロレス界から引退した。

「井上さんがレフェリーをされて、レスラーを食ってしまうほどの人気だったことはよく知っています。『ぎこちないレフェリングがファンに受けた』なんて言う人もいますが、それは違いますよ。プロレスというものを、見せるということを知り尽くした井上さんが会場を盛り上げようと考えてのこと。僕はそう思います。

 しばらく接点がありませんでしたが、去年電話でお話しする機会がありまして。今、井上さんは宮崎県に住んでいらっしゃって、雑誌やテレビの取材を受けているようです。

 いやぁ、お元気な声を聞いて懐かしかったですね。なんてったって、ナニワトレーニングセンターからのつながりですから。今度じっくりナニワ(トレーニングセンター)の荻原(稔)会長の話とかしたいし、国際プロレスのことだって井上さんのほうが先輩だからいろいろご存じですし。解散したときも僕は長期離脱していましたが、井上さんは最後までリングに上がっていましたからね。

 井上さんにはプロレスがなんたるかを教えてもらい、ホントお世話になりました。ありがたいです。感謝しています」

(つづく)
【連載】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」

連載第1回から読む>>>