「東京五輪の前にもう一度考えたい、スポーツの価値」東京五輪を4年後にひかえ、スポーツの価値を再認識しようという風潮を感じます。しかし、スポーツとはこいうものだという明確な定義は存在せず、それこそ個人に委ねられているものなのかもしれません。僕…

「東京五輪の前にもう一度考えたい、スポーツの価値」

東京五輪を4年後にひかえ、スポーツの価値を再認識しようという風潮を感じます。

しかし、スポーツとはこいうものだという明確な定義は存在せず、それこそ個人に委ねられているものなのかもしれません。

僕はスポーツとは
「体を動かしたい、他者と競いあいたいという人間の本能が、長い歴史を通して正当に体系化されたものであり、経済、教育という人類の諸活動の変化に順応したもの」自分なりに定義しています。

物事の価値を確かめるために、それを失った未来をリアルにイメージするという自分なりの変な方法があるのですが、笑

スポーツにおいては、その思考方法はナンセンスだと感じるくらい、あって当然のものだと思うんです。

スポーツが地球上からなくなるケースがあるとすれば(極端ですが、笑)、人類の生存が全世界で危ぶまれる時か、人類が絶滅する時だと思います。

ピストルを向けられているときに、それよりスポーツをしたいー!とはどう考えてもなりませんが、

この洋服が欲しすぎて手にはいるまで一生スポーツはしない!ということも常識的に考えづらいとすると、

生存欲求 〉スポーツをしたいという欲求
物欲≒スポーツをしたいという欲求

くらいのイメージをもっています☆

また、自分を掘り下げ、他者と関わりをもつという特徴や、体を動かすという特徴から、教育、医療、心理的成長という分野にもよい影響を及ぼすとされていることは、

偶然の副産物というよりも、やはりスポーツが人間の本能に由来しているがゆえのものだと個人的に感じます。(理論が飛躍していますね笑)

しかし、ラッキーだったのが、スポーツが資本主義経済に上手く順応したことだと思います!

それにより、ルールや規制がが変わってしまった競技があるのも事実ですが、

経済なくしてスポーツの発展はなく、経済がスポーツに期待するところもまた大きく、言うなれば花と蜜蜂のような関係なのかもしれません。

家族や恋人のように、(悲しいことに僕の場合後者はいませんが笑)当たり前にある物事のほど、

能動的にその物事の価値を考えることが大切だとするならば、

スポーツという紀元前から続く活動の意味を東京五輪を前に再度考えてみたいなーと思いました。

和田賢一

昨日は陸上の大会を観戦しましたー☆