1997年7月11日、ラスベガス。西島洋介山はWBF世界クルーザー級王座決定戦でブライアン・ラスパダ(米国)を判定で下しタイトルを獲得した。日本未公認のマイナー団体ではあったが、初めて手にする世界のベルトだった。しかし、日本では認められて…
1997年7月11日、ラスベガス。西島洋介山はWBF世界クルーザー級王座決定戦でブライアン・ラスパダ(米国)を判定で下しタイトルを獲得した。日本未公認のマイナー団体ではあったが、初めて手にする世界のベルトだった。しかし、日本では認められていない団体のため日本ボクシングコミッション(JBC)からはタイトルの返上を求められた。洋介山は拒否するが、ジムはJBCの要請を受け返上を決めた。納得のいかない洋介山はジムに引退届を出し米国へ渡ったと報道されたが、ジムとの亀裂はその2年前にさかのぼる。
国内ではランキングさえ存在しないヘビー級。そんなクラスの洋介山(実際にはクルーザー級)がリングに登場すれば会場は自然と満席になった。テレビ各局も競うように取り上げた。
「95年ぐらいでしたか、ジムがファンクラブを作って、自分の両親を役員にしました。でも父はサラリーマンでファンクラブの仕事はできないので、父の知人にその仕事をお願いしたんです。その方は一生懸命やってくれましたが、会長(渡辺治)はその運営方法が気に入らなかったのか、知人を辞めさせるように両親に言ってきました。それからは、ありもしないことを厳しい口調で言ってくる。どんどんエスカレートしていって、今度は両親も追い出そうとした。母親はよく泣いていました」
文句、不満など言ったことのない洋介山が涙を流す母の姿を目にした時、渡辺との信頼関係は一気に崩れていった。
「なぜ親を悲しませるのか。もうこの人とはやっていけない」
ジムに反旗を翻し米国へと渡った時には、さまざまな臆測が飛び交った。本格派ボクサーなのに色物的な売り出し方が嫌だった。ファイトマネーが安すぎたなど、うわさをあげればきりがない。
「どれも違います。笑われたり、ファイトマネーだったりとかではありません。実際、ファイトマネーは皆さんが想像する以上にもらっていました。ジムを離れたのは、ファンクラブの件があったからです」
会長の渡辺は2020年8月3日に死去しているためジム側の言い分を聞くことはできないが、洋介山はファンクラブからすべてが崩れていったのだという。そして98年、米国での選手生活をサポートしてくれる人材も見つかり隠れるように渡米した。
「(渡米前は)本当に切羽詰まった状況で、この方法しかないと思い込んでいました。今となっては後悔しています。最後ぐらいは(会長に)面と向かってあいさつするべきでした」
渡米する際、渡辺には一切会わなかった。引退の意思を示した手紙をジムに送り、飛び出す形をとった。「本当に失礼なことをしてしまった」と心を痛める。今では面と向かい腹を割って話すことを願っても、かなうことはないのだ。
米国でも前途多難だった。両肘に故障を抱え、パンチをまともに打てる状態ではなかった。手術した回数は左右合わせて5回。2001年からの3年間は年に1回しか試合を消化していない。2003年7月10日のカリフォルニア州クルーザー級王座決定戦が米国でのラストファイトとなった。2回TKO負けするが、実はこの試合に勝てば「次は日本での試合だった」という。日本でのライセンスはジムを飛び出したことで無期限資格停止となっていたが、洋介山をサポートする現地関係者の働きかけで、国内復帰へ動き出していた。しかし、肘は限界に達し、ボクサーとしての幕を下ろし帰国を決意した。
2005年に総合格闘技のPRIDE、その後K―1にも参戦するが8連敗。ほぼ拳のみで戦う洋介山にとって、寝技やキックは別次元の格闘技だったようだ。どん底にいた洋介山は知人を介してカナダ人のモデル、女優として活躍するアンナと出会う。食事などを重ねる中で意気投合すると、アンナにマネジャーを依頼。後楽園ホールの入るビルの下で、多くのファンからサインをせがまれる洋介山の姿を目にしたアンナは「最後の花道」とボブ・サップを相手に引退試合を計画する。しかし洋介山の両親は大反対した。「お願いだからリングに上げないでほしい。もう試合は辞めさせてほしい」と涙ながらに訴えられた。悩んでいるアンナを前に洋介山が言った。
「もう1回だけ、あの脚光を浴びさせてほしい。死んでもいい。死ぬならリングの上で死にたい。試合の計画を進めてほしい」
もう両親でさえ、口を挟むことができなかった。本音はボクサーとして最後のリングに上がりたかったが、もはや競技へのこだわりはなく、試合ができるだけで幸せだった。2013年11月、アンナの尽力で実現した試合は1回KO勝ち。この1勝こそ、ボクサー以外で上げた唯一の白星となった。引退試合を最高の形で終えた洋介山には、その後もオファーが絶えなかった。しかし、22年9月、愛媛でのキックボクシングルールで臨んだ試合で悪夢が訪れる。相手の左フックを浴びダウンすると、頭部をマットに打ちつけ救急搬送された。診断結果は急性硬膜下血腫。幸い開頭手術は避けられたが、10日間の緊急入院を強いられた。もう、真剣勝負のリングに上がることはあきらめた。
米国から帰国後はさまざまな職に就いた。苦労も多かったが、アンナにマネジャーを任せてからは仕事も順調になったという。日本での生活が数十年になるアンナは、自然な日本語を口にする。本業はモデル、女優で、女子プロレスラー・ダンプ松本を題材とした配信ドラマ「極悪女王」にも出演。役作りのため17キロ増量して同じカナダ出身の巨漢レスラー、モンスター・リッパーを演じている。格闘家としても「あんな山」のリングネームでキックボクサーとしてデビューするなど多種多才な人物だ。
元統一世界ヘビー級王者マイク・タイソン(米国)への憧れがすべてのスタートだった。プロになり、良い時間もあれば苦しい時間も多く過ごした。洋介山の現役生活は禍福糾ぼくだったはずだが、すべてを福と捉えている。
「自分が一番エキサイトできたのがボクシング。これ以上、面白いことはない。ボクシングをすることで多くの人との出会いもあった。出会いって宝です。色々ありましたが、オサムジムでスタートしなければ、ここまでやっていなかったと思います」
テンガロンハットの恩師へ抱いた不信感は、再び感謝へと変化した。タイソンにはなれなかったが、少しは近づき、日本重量級史に確かな足跡を残した。そして渡辺という人間に出会わなければ、ここまで注目される存在にはなっていなかった気もする。(近藤 英一)=敬称略、おわり
◆西島 洋介山(にしじま・ようすけざん=本名・西島洋介) 1973年5月15日、東京・板橋区出身。元統一世界ヘビー級王者マイク・タイソンに憧れ、高校2年でボクシングを始める。92年3月にプロデビュー。坊主頭に地下足袋を履いた重量級ボクサーとして時の人となる。NABOクルーザー級、東洋太平洋同級、WBF世界同級王座などを獲得。ボクシングのラストファイトは2003年7月のカリフォルニア州クルーザー級王座決定戦(2回TKO負け)。98年に米国に渡ってからはリングネームを本名の西島洋介に改める。現在はパーソナルトレーナー、タレントとして活動している。身長180センチ、体重95キロ。ボクシングスタイルは右ボクサーファイター。