坊主頭を左右に振り、地下足袋を履いた足で力いっぱい踏み込みパンチを打つ。重量級ボクサー西島洋介山は1990年代のボクシング界で主役のひとりだった。最強といわれる90・7キロ以上のヘビー級に憧れ、こだわり続けた洋介山は、マイナー団体ながら世…
坊主頭を左右に振り、地下足袋を履いた足で力いっぱい踏み込みパンチを打つ。重量級ボクサー西島洋介山は1990年代のボクシング界で主役のひとりだった。最強といわれる90・7キロ以上のヘビー級に憧れ、こだわり続けた洋介山は、マイナー団体ながら世界王座を手にした97年にジムに引退届を送り、ひっそりと米国に渡り戦いの場を移した。当時、世界チャンピオン級の注目度のあった洋介山には渡米に関し、所属ジムとの軋轢(あつれき)など多くの臆測が飛び交った。「後楽園ホールのヒーローたち」第19回は、5月で52歳になる洋介山に日本を離れた本当の理由、ボクサーを目指したきっかけを聞いた。(取材・構成・近藤英一=敬称略)
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年を重ねた洋介山は多少ふっくらとした印象だが、坊主頭にがっちりとした上半身には30年前の姿がダブる。ボクシングは2003年7月の米カリフォルニア州クルーザー級王座決定戦(2回TKO負け)がラストファイト。その後は総合格闘技やK―1のリングに上がった。ほぼパンチのみで戦うため、キックや寝技の洗礼を浴び連戦連敗。そんな苦い経験がありながらも、洋介山はこう言った。
「これまで色々な格闘技を経験してきましたが、今でもボクシングのヘビー級チャンピオンが世界最強だと思っています。自分の原点はマイク・タイソン(元統一世界ヘビー級王者、米国)。ヘビー級では小柄(180センチ)なのに恐ろしいぐらいに強い。とにかく輝いて見えた。拳を制した者が一番強いんです」
普段はぼそぼそと小声でしゃべる洋介山も、この時ばかりは声を大にしてボクシング愛を語った。と、いうよりもタイソンへの思いだった。洋介山は本当にタイソンになりかったのだ。
1988年3月21日、東京ドーム。世界中が注目する中、初来日のタイソンは挑戦者のトニー・タッブス(米国)を2回KOであっさりと退けた。テレビから映し出されたKOシーンに「鳥肌が立った」という。次戦の世紀の一戦といわれたマイケル・スピンクス(米国)との防衛戦にも1回KO勝ちする。中学3年の少年は、感動と同時に妄想した。
「タイソンは体が小さいのに大男たちを簡単に倒してしまう。ならば俺にもできるはずだ」
ヘビー級ボクサーになるために体重を増やし始めた。「100キロになったらジムに入ろう」。高校に入ると母に頼み込み弁当を三つ作ってもらった。だが、反対されることを恐れ、プロボクサーを目指していることを両親には言えなかった。スナック菓子も毎日大量に口にしたが、体重は思うように増えない。「100キロなんかとても無理。93キロになった高2の時に家の近くのジムに入門しました」。どこへ行くにもテンガロンハットをかぶったアイデアマン、オサムジム会長・渡辺治との出会いだった。ここから、奇想天外なボクサー人生がスタートするのだが、会長からの第一声は意外にもヘビー級お断りだった。
「ジムに行ってヘビー級でやりたいと言ったら『日本はミドル級(72・5キロ以下)までしかない。体重を落としてからこい』と言われました。自分は体重を増やしていたし、落ちませんと言い続け、何とか聞いてもらったんです。どのジムでも会長の立場ならそう言うと思いますが、よく納得してくれたと思います。オサムジムでなかったら、ヘビー級ではできなかったでしょう」
渡辺は考えたのだろう。「日本人ヘビー級チャンピオンを育てる」というストーリーを描き、洋介山をキャンバスの上にのせた。歩く姿に将来性を感じ路上でスカウトしたというのが、ジムからの発表だった。西島洋介という本名に「山のように大きくなれ」という思いが込められた「西島洋介山」のリングネームに、坊主頭に地下足袋というスタイルがやけにマッチした。口数が少ないことも洋介山に神秘的イメージを植え付けた。勝利者インタビューでは多くを語らず「会長に聞いてください」と小声で口にするだけ。「あれは素の自分です。人見知りで、恥ずかしがり屋なんです。当時はインタビューが苦手でした」と述懐した。
話題先行のように思われがちだが、ボクシングは本格派だった。体も引き締まり、スピードもあった。明らかに、これまでの日本人ヘビー級ボクサーとは一線を画した。渡辺の珍妙なアイデアも注目度アップに拍車をかけた。その代表格が、マスコミが大々的に取り上げた必殺パンチシリーズだ。
【桂馬パンチ】渡辺が突然「洋介、桂馬パンチだ。桂馬パンチ」と叫ぶ。洋介山は将棋の駒の「桂馬」の動きと同じように足を運び、相手の見えない角度からパンチを打ち込む。
【宇宙パンチ】雪山でのキャンプ。会長が投げる雪の塊を洋介山がひたすら打ち続ける。空に向かって拳を振り上げる洋介山に「打て、宇宙パンチだ」。当時、大宮市出身の若田光一さんが宇宙飛行士として話題となり、ジムも同じ大宮にあったことから名付けられた。
【手裏剣パンチ】洋介山は尊敬する元WBC、IBF世界スーパーウエルター級王者テリー・ノリス(米国)のパンチの打ち方をまねして練習していると会長が「それ、手裏剣の投げ方に似ている」と名王者の技がいきなり手裏剣パンチと命名される。他にもタイソン、イベンダー・ホリフィールド、ジェームズ・トニー(ともに米国)といった名王者を参考にしていた。
ひとつ間違えれば色物扱いされてもおかしくない。それでも洋介山は意に介さなかった。「別に何も思いませんでした。自分はボクシングをしているだけ。ただ強くなりたいだけで、不満なんてひとつもなかった」と素直に受け入れた。足にはリングシューズではなく、地下足袋を履いた。これも会長のアイデアだが、その効果を知っていたからこそ履かせた。
「踏ん張りがきいて、しっかりと足に力が入る。自分は足(フットワーク)を使うタイプではなく、踏ん張って打つ方なので、すごくよかった。特に何の抵抗もなかった」
18歳のデビューから日本と米国で試合を重ね、95年2月にジョン・カイザー(米国)を下しNABOクルーザー級王座を獲得。翌年には東洋太平洋同級タイトルを手にする。ヘビー級には届かないが渡辺の指導を受け、ひとつ軽い90・7キロ以下のクルーザー級で確実に実績を積み上げていった。「色々なトレーナーに(ボクシングを)教わりましたが、誰に教わっても会長の教え方が一番あっていた。自分のフックの打ち方は独特で、相手を自分の方に巻き込む打ち方なんです。これは会長から教わったもので、他のトレーナーに変えろと言われても、最後までこの打ち方を通しました」というほど、師弟関係は盤石だった。
デビューから4年、22歳になった時だ。不満など口にしたことのない洋介山が突然、会長へ不信感を抱き始める。ジムが会社組織として「ファンクラブ」を創設すると同時に、「チーム洋介山」は音をたてて崩れ始めた。(続く)
◆西島 洋介山(にしじま・ようすけざん=本名・西島洋介) 1973年5月15日、東京・板橋区出身。元統一世界ヘビー級王者マイク・タイソンに憧れ、高校2年でボクシングを始める。92年3月にプロデビュー。坊主頭に地下足袋を履いた重量級ボクサーとして時の人となる。NABOクルーザー級、東洋太平洋同級、WBF世界同級王座などを獲得。ボクシングのラストファイトは2003年7月のカリフォルニア州クルーザー級王座決定戦(2回TKO負け)。98年に米国に渡ってからはリングネームを本名の西島洋介に改める。現在はパーソナルトレーナー、タレントとして活動している。身長180センチ、体重95キロ。ボクシングスタイルは右ボクサーファイター。