24歳とは思えぬ落ち着いた物腰に静かな口調、卓球選手・英田理志(あいださとし)と相対すると常に思慮深い印象を受ける。だが、この男はそんな第一印象を“いい意味で”裏切る。安定した実業団という地位を捨て、プロ選手としてのスウェーデンリーグ挑戦を…
24歳とは思えぬ落ち着いた物腰に静かな口調、卓球選手・英田理志(あいださとし)と相対すると常に思慮深い印象を受ける。だが、この男はそんな第一印象を“いい意味で”裏切る。
安定した実業団という地位を捨て、プロ選手としてのスウェーデンリーグ挑戦を表明したのだ。
通常の卓球選手とは少々異なる生い立ちに、カットマンにもかかわらず繰り出される強烈な攻撃。トリッキーな選手と思いきや、一打一打は基本に忠実な丁寧なプレーだ。英田という卓球選手はいかにして生まれたのか。
スウェーデンへの出発直前の英田をラリーズが直撃。独占インタビューの様子を2回にわたり紹介する。前編となる今回は24歳の英田の卓球キャリアを振り返る。
牧師でカットマンの父の影響で卓球を始める
楽しそうに卓球を始めた幼少期を語る英田
名門・福岡大学卓球部の選手だった父の影響で卓球を始めた英田。
2歳の頃から父の練習や試合に付いて行き、「物心ついたときから自然と卓球に親しみを持っていた」という。
そんな英田が卓球を本格的に始めたのは小6の時だった。卓球が盛んな地元静岡の藤枝スポーツ少年団に所属し「スピンをかけるのが面白い」「打球感が心地よい」という理由で卓球にのめり込んでいった。
英田はカットマンだった父に憧れ、卓球をはじめた時から自然とカットマンを選択した。しかもラバーは両面裏ソフトだった。一般的にカットマンの選手はラバー自体が変化ボールを生み出す粒高ラバーを使用する選手が多いが、英田はラバーに頼らず自ら回転の変化を付ける裏ソフトを選んだ。
中学に入ってからは全日本マスターズで優勝経験のある西村雅裕氏と練習する機会が増えた。大人たちが放ってくる威力のあるボールを前に「カットで粘るだけでは勝てない。もっと攻撃しよう」と思い立ったという。
この頃から対戦相手に「カットをしてくるか攻撃してくるか分からない」と思わせるトリッキーなプレースタイルが形成されていく。
その後、島田商業高校に進学した英田は高校3年間で静岡最強のカットマンとして名を馳せるようになる。
高校3年時には県大会シングルス準優勝の好成績を残し、各大学から注目を浴びはじめるが、静岡代表として出場したインターハイは初戦で注目の中国人留学生をフルゲームの末破るも、2回戦で敗退。
それでも、全国からポテンシャルの高い選手を集めて育成する岐阜の名門・朝日大学から声がかかり、英田は迷わず進学を決めた。
ターニングポイントとなった朝日大と日本リーグ
英田が進学先に朝日大学を選んだ理由は2つある。
「練習に集中できる環境」と「日本リーグ」だ。
「田舎で周りに何も無いから卓球しかすることがなかった」と語る英田の大学生活は卓球中心のものとなった。平日は授業が終わると体育館に向かい、週末も朝から夕方まで練習。平均して週に40時間以上を卓球に費やせる環境はカットと攻撃の両方をレベルアップさせたかった英田には合っていた。
また、朝日大学が「日本リーグ」(実業団チーム同士が団体戦で戦う日本のトップリーグ)に加盟していたことも英田にはいい環境だった。
多様なプレーヤーが揃う日本リーグで自身の力を試す。反省点を持ち帰り母校で徹底的に練習をする。また次のシーズンで力を試す。
このサイクルを4年間繰り返すことで、英田はメキメキと力をつけた。高3のインターハイで2回戦負けだった英田は、朝日大4年時に東海学生選手権でシングルス優勝。静岡の全日本予選も一般の部でシングルス優勝するなど個人戦での実績が目立つようになり、実業団から声がかかるほどにまで成長していた。
憧れのカットマン塩野真人との出会い
「米塚さん(朝日大学監督)が顔が広くて、全国の強いチームによく遠征に行かせてもらいました。特に東京アートでの練習が印象に残ってますね」
日本代表選手も多く輩出してきた名門実業団チーム「東京アート」の練習に参加した時のことを英田は鮮明に覚えているという。
「全日本選手権の直後に東京アートの練習に参加させて貰いました。めちゃめちゃ緊張しましたね。卓球王国とかで見てた大矢(英俊)さんとか塩野(真人)さんとかが目の前にいるんですよ。僕も緊張しすぎてブロックが止まらなかった。」
特に英田にとって塩野は雲の上の存在だった。塩野は当時“国内最強のカットマン”との呼び声高く、ITTFワールドツアーで2回も優勝し、世界卓球日本代表にも選ばれるほどの名選手。そんな塩野との練習は緊張の連続だった。思うようにプレーできない英田。当時の英田にかけられた「目の覚めるような一言」はいまだに頭に残っているという。
「お前は何のために来た?俺らは全日本で燃え尽きてる時期なのよ。お前がもっとやる気だして俺らのモチベーション上げるくらいに向かって来いよ!」
憧れの最強軍団を前に、緊張もあって遠慮がちにプレーしていた英田はこの一言で吹っ切れた。この塩野からの叱咤以降、格上選手との練習でも相手に合わせるのではなく遠慮なくアグレッシブなプレーをし、試合を想定した実践的な練習が出来るようになったという。その後、物怖じせずにいろんな強豪チームの練習に参加するようになった英田は「気づけば卓球王国で見ていた選手たちが目の前にいるのが当たり前になっていきました」と振り返る。
元々は大学を卒業したら父と同じ牧師になるための勉強をしようと思っていた英田だが、大学4年間での確かな成長を感じ、「卓球をどこまで極められるか挑戦したい」という気持ちが芽生えていた。
最終的にはタイミング良くいくつかの実業団チームから声がかかり、神奈川の名門・信号器材に就職することに決める。この決断が英田の人生を大きく左右することになる。
写真・文:川嶋弘文(ラリーズ編集部)