サッカー元日本代表のFW柿谷曜一朗(35)が23日、長くプレーしたセレッソ大阪の本拠であるヨドコウ桜スタジアムで引退会…

 サッカー元日本代表のFW柿谷曜一朗(35)が23日、長くプレーしたセレッソ大阪の本拠であるヨドコウ桜スタジアムで引退会見を開いた。

 泣かないと決めていたという節目の日。壇上で柿谷は2度、言葉を詰まらせた。

 1度目は、セ大阪サポーターとの思い出を語った時だ。2021年のルヴァンカップ決勝で、当時柿谷がいた名古屋グランパスはセ大阪と対戦した。古巣との頂上決戦に、何日も前から眠れない日々だったという。

 もちろん勝ちたいが、古巣にタイトルを取ってもほしい――。複雑な感情を抱えるなか、救ってくれたのは親交のあるセ大阪サポーターの言葉だった。

 「セレッソの曜一朗やから。どうなろうと、お前のプレーが楽しみなだけやから」

 柿谷は「本当に気持ちが楽になって、プレーできた。その方には、この場を借りてお礼を言いたい」と涙ながらに言った。

 そして、こう続けた。

 「もしこの先、僕のような選手が(セレッソから)移籍して、憎しみのような感情があったとしても優しく声をかけてあげてほしい。セレッソで育った子らは、どんなことがあっても、セレッソが好きやから」

 サッカーを始めた4歳からセ大阪の育成組織で育った。2006年、当時クラブ最年少となる16歳でプロ契約を結んだ。

 非凡な才能を誰もが認め、「ジーニアス(天才)」と称された。一方で遅刻を繰り返すといった素行の悪さが問題視され、09年シーズン中にJ2徳島ヴォルティスに期限付き移籍させられた。

 これが、柿谷にとっての大きな転機となった。当時の美濃部直彦監督は、その才能を認めつつも、手厳しい指摘を繰り返した。

 「何してんねん、なんで守備しないねん?」

 「お前がいいプレーする前に、誰がボール取ってくれてんねん?」

 ただうまければいいと思っていた柿谷は、チームの一員であることの大切さを教え込まれた。

 「サッカーというより、人間的な部分で、そもそもダメやと真っすぐ、正直に伝えてくれた。お父さんのような存在」。そう感謝する。

 人生の恩師と出会った徳島から12年にセ大阪に戻ると、一気に才能を開花させた。13年はJ1で21ゴールの活躍。翌年のワールドカップ(W杯)ブラジル大会にも出場した。

 その後、スイス1部のバーゼルへ。欧州でのプレーを経てセ大阪へ戻り、名古屋への移籍を経て、23年にJ2徳島に復帰した。だが、右アキレス腱(けん)のけがに悩まされ続けた。

 患部に麻酔の注射を打つことで痛みを消し、試合出場を続けた。代償は大きかった。麻酔が切れると激痛に襲われた。痛みのあまり、帰宅して30分以上、言葉を発することさえできない日もあったという。

 思うような結果が残せなかった昨シーズン限りで、徳島との契約が満了。その後、複数のクラブからオファーはあったが、年明けに引退を決断した。

 「J1に引き抜いてもらうぞとか、(下のカテゴリーから)J2に行くぞとか、代表になるぞというモチベーションの選手とともにやれるのか。それを考えたときに、(一緒にプレーするのは)失礼かなと思った」

 引退を決め、3人の子どもに伝えた。「『パパ、サッカーやめんねん』って言ったら、大喜びして」

 ここで再び言葉を詰まらせ、涙をぬぐった。

 「『ずっと家におってくれるってこと?』って言ってたんです、一番上の子が。大阪で生まれて、名古屋に行って、徳島に行って。(子どもたちの)友達が変わったりもして。たくさん家族の時間が、これからはつくれる」

 現時点では、指導者の道を考えていないという。「僕みたいな人間がなるべきではないと僕自身が分かっている」。サッカーとの接点を持ちつつ、違う舞台での活動を模索していく。(松沢憲司)